衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年03月06日    水曜日     第1開示 合計4137開示

養気と道の関係

気を養うことは即ち道を養うことであり、気が満ちれば心は定まり、心が定まれば智慧が生じ煩悩は降伏し、道を見ることが容易になる。気を養うには第一に補い、第二に保護することが肝要であり、軽々しく消耗してはならない。第二に気の漏洩を防ぐことが最も重要である。なぜなら気を補いながら同時に気を消耗・漏洩させては、補う意味がなくなり、誤った補給によって病障が生じる恐れがあるからである。

人体の気はどの方面で漏洩しやすいか。まず大小便の際は気が漏れ、肝気・肺気・脾気・胃気などを消耗する。これらの気が不足すると大小便が困難となる。従って大小便の回数が多いほど漏れる気も多く、体が虚弱な者は大小便後に脱力感を覚える。よって仏は弟子たちに飲食の際は適量を知り、日中一食、過午不食を守るよう説かれた。これにより第一に福徳の消耗を防ぎ、第二に修行時間の浪費を避け、第三に貪心の助長を抑え、第四に頻繁な大小便を免れるためである。仏の戒律には一定の科学的道理があり、修道にも有益なのである。

第二に最も気を漏洩しやすいのは淫欲であり、これも体内の気を多く消耗する。淫欲に頻繁な者は体質が弱い。昔の皇帝は常に補薬を服用する必要があったが、補給が漏洩に追い付かず、補薬の過剰摂取も体を損ね、ついには体の虚損により早逝した。節制ある皇帝のみが長寿を得る可能性があったが、その数は少ない。仏が戒を制定して淫を断つことを求めたのは、淫欲が生死輪廻の根源であり、淫欲がなければ欲界を脱するからである。首楞厳経(しゅりょうごんきょう)で仏は「淫心をもって道を行えば沙を蒸して飯と成すが如く、終に成就せず」と説かれた。沙は飯の本質ではないように、淫欲心をもって道を行えば魔の行いとなり、遂に道を成さない。よって仏は淫を断つ戒を制定されたのである。一心に発願して道を成そうとする者は、自己の解脱のためにも自ら淫欲の煩悩を降伏すべきである。

第三に気を漏洩しやすいのは言語である。発話には丹田の気を消耗し、意根が言葉を発しようと念じると丹田の気が発動し、気は脈輪に沿って上昇し、喉輪を経て舌根に至り、意識と身識が生起して言語が生まれる。この過程で各臓腑の気が多く言語と共に流失する。よって気虚の者は発話に力がなく、声さえ出せない場合もある。多く話すと脱力感を覚える者もおり、毎日多弁な者は気を消耗しすぎる。こうした者には通常禅定がなく、仮にあっても退失する。よって仏弟子の修道者は一般に静寂を好み、重要な用事がなければ話さない。これにより第一に気を集め、第二に心を散乱させないのである。

第四に気を消耗しやすいのは空想にふけることである。心の念いが多すぎると精神が内耗し、気も消耗し尽くされ、禅定が生じにくく、仮に生じても消滅する。「口を開けば神気散じ、意動けば火工寒し」——言葉を発すれば体内の気は散逸し、意根が一念動けば身体で修練された火は消散する。暖かい相が消えると身体は寒冷となる。念いもまたエネルギーを消耗する。身体が特に虚弱な者は問題を集中して考えられず、脳内が空白になることもある。思慮過多の者は疲労しやすく、空腹も感じやすい。常に頭脳を使う者は脾が虚しやすく、エネルギーが消散するにつれ禅定も消失する。

以上が身体の気が漏洩・消耗する主要な経路である。九竅(きゅうきょう)はいずれも気血を消耗しやすく、長く視れば肝気が散じて肝血不足を招き、長く聴けば腎気が散じて腎衰を招く。嗅ぎ・味わい・触れることを長く続けても気血の流失を引き起こし、禅定を持続できなくなる。身体表面の毛孔もエネルギーを発散し、長時間の入浴や高温は気血の流失をもたらす。道を修めるには世俗の行為を全て節度をもって行い、適度で止むべきである。色・声・香・味・触・法に貪着しなければ、道は成就しやすい。

——生如法師の開示
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