気を養うことは即ち道を養うことであり、気が満ちれば心は定まり、心が定まれば智慧が生じ煩悩が降伏し、道を悟ることが容易になる。気を養うには第一に補い、第二に保護することが肝要で、安易に消耗させてはならない。第二に漏洩を防ぐことが最も重要である。補いながら同時に気を消耗・漏洩させれば、補う意味がなくなり、誤った補い方をして病障を生じる恐れがある。
人体の気はどの方面で漏れやすいか。まず大小便の際に気が漏泄し、肝気・肺気・脾気・胃気などを消耗する。これらの気が不足すれば排泄が困難となる。排泄回数が多いほど気の漏泄も多く、体が虚弱な者は排泄後に脱力感を覚える。故に仏は弟子たちに飲食において適量を知り、日中一食、過午不食を守るよう教えられた。第一に福徳を消耗せず、第二に修行時間を妨げず、第三に貪心を助長せず、第四に頻繁な排泄を避けるためである。仏の戒律には科学的道理があり、修道にも資する。
第二に最も気を漏らしやすいのが淫欲で、体内の気を多く消耗する。淫欲に耽る者は体質が弱い。かつての皇帝は常に補薬を服用したが、補う量が漏出に追い付かず、補薬の過剰摂取は体を傷つけ、ついに体が虚脱して早逝した。節制ある皇帝のみが長寿を得たが稀である。仏が戒で淫を断つことを求めるのは、淫欲が生死輪廻の根源であり、淫欲無ければ欲界を超越できるからだ。『楞厳経』で仏は「淫心を以て道を行えば沙を蒸して飯と成すが如く、終に成就せず」と説かれた。沙は飯の本質でない如く、淫欲心による修行は魔行となり成道しない。故に成道を願う者は自ら淫欲煩悩を降伏すべきである。
第三の気の漏泄は言語である。発話には丹田の気を消耗し、意根が発話を思う時、丹田気が発起し脈輪を上昇し喉輪を経て舌根に至り、意識身識が生じて言語となる。この過程で臓腑の気が多く流失する。気虚の者は声に力なく、発声困難にもなる。多弁の者は脱力感を覚え、常時多話する者は気を消耗し、禅定を保てず得た禅定も退失する。仏弟子は静寂を好み、重要事無き時は黙する。これにより気を集め心の散乱を防ぐ。
第四の気の消耗は妄念である。想念が多すぎると精神が内耗し気が消散し、禅定が生起し難く生じても持続しない。口開けば神気散じ、意動けば火工寒し。発話すれば体内気が消散し、意根が動けば修得した火が消散し暖相が失われ体が冷える。念慮もエネルギーを消耗し、極度に虚弱な者は思考集中できず、脳は空白となる。思慮過多は疲労と飢餓を招き、常用する者は脾虚になり易く、エネルギー消散で禅定も失われる。
以上が気血を消耗する主要経路である。九竅は皆気血を消耗し、目を酷使すれば肝気が散じ肝血不足に、耳を酷使すれば腎気が散じ腎衰を来す。嗅覚・味覚・触覚の過剰使用も気血を流失させ禅定を継続できぬ。体表面の毛孔もエネルギーを発散し、長時間の入浴や高温は気血を流失させる。道を修めるには世俗の法を節制し適度に留まるべきである。色・声・香・味・触・法に貪着せず、道は容易に成就する。
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