君若蘭の観行:観行における意識作用が意根に及ぼす過程の共有。目を閉じ、静寂に入る。意識は見聞覚知が自分ではないと理解する。これは容易に把握できる。そこで意識が問いを発する:「見聞覚知は私なのか?」この意識が明確に理解した言葉がゆっくりと下方へ沈んでいく。無限に広がり堅固なエネルギー体の上に到達する時、このエネルギー体が無始劫以来ずっと見聞覚知を自己と認識してきたことに気づく。その執着はあまりにも堅固で、細胞の一つ一つに染み透るかのようだ。ゆっくりと降りてきたその言葉に、エネルギー体の内側がわずかに揺らぐが、依然として執着から離れることはできない。「見聞覚知は私なのか?」意識はなおも問い続ける。すると内側に恐慌や疑問、諦めきれない想いが生じ、背中が微かに震え、涙が溢れそうになる。このような大きな情動が湧き上がる時、当初私は完全に意根の現れだと思った。しかしさらに観行を深めた結果、この覚受には意根の触発もあるが、より多くは意識の覚受であると理解した。再び静寂を取り戻し、その巨大なエネルギー体を感じた時、依然として見聞覚知を自己とする執着が存在することに気づく。この執着は言語表現ではなく、覚受として現れている。この時私は悟った。往々にして私たちが意根の大きな触動だと思い込む現象も、強い感覚体験があっても、その多くは依然として意識の感受に過ぎない。無始劫以来の意根の執着は骨髄に刻まれ、細胞に染み渡っている。どうして一度の観行で容易に大変化が起こせようか。この発見は前述の観察通り、大きな覚受が現れた後、再び静寂の中で巨大なエネルギー体を観行すると、その執着が依然として深く根付いていることに気づく。おそらく僅かな触動はあったが、その微かな揺らぎは全体の執着に比べれば、大きな変化を引き起こすには至らない。この文章を共有する意図は、このような触動を伴う観行が無数に繰り返される必要があることを伝えるためだ。決して大きな覚受体験が現れたからといって、意根が完全に正しい認知を受け入れたと早合点してはならない。私たちには愚公山を移す精神が必要で、過度の楽観や自信を持つことなく、しかし歩みを止めずに前進し続けなければならない。なぜなら意根の執着は観行を深めるにつれ、少しずつ減じていくものだからだ。講評:意識の智慧認知は多くの層に分かれる。禅定が進むにつれ、意識の智慧認知は絶えず強化され、深化し、具体化し、細分化し、適切な位置に定着する。意識の真の智慧は証悟後の智慧であり、それ以前は未完成で、修正変更される可能性がある。禅定が深まるほど意識はより智慧を具え、意根に対する薫染啓発作用も強まる。意識の認知が具体的であればあるほど証拠と証量を備え、意根への薫染啓発作用も大きくなる。故に意識の表面的な理解は効果薄く、靴の上から痒い所を掻くようなもの。深く知って初めて意根を触動させ得る。意根の智慧認知も多数の層を有する。禅定の深化と意識智慧の完成に伴い、意根の智慧は次第に深まり、一定の深度に達すると突然従前の認知を断ち切り、徹底的に知見を転換させて見地と化し、証悟に至る。多くの者が意識の浅い理解段階で証したと自認するが、実際には証悟から遥かに隔たっており、数劫を経てようやく証の縁に達し得る。知るべきは、意識の深い智慧も容易に現れざるものなりということ。君若蘭のこの状況は慧をもって定を引く類型に属す。卓越した意識の智慧を用い、心を当下に観行する法に定め、散乱雑念なく、意識の法に対する認知を漸次深透させ、意根の認知を喚起し、さらに意識と意根の認知を強化し、更なる慧を生起させる。これを層次的深化と呼ぶ。慧の強い者は慧をもって定を引けるが、慧の弱い者は順序通りに定を修め、その後観行によって慧を生じさせるしかない。しかし慧が弱いため心を定着させ難く、反復を重ねてようやく一時的に定まる。故に慧さえあれば全て順調と言えるが、前提として福徳が必要。福徳は一切の修行の基盤なり。
14
+1