衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年03月05日    火曜日     第1 回の開示 合計4136回の開示

識の知は多くの階層に分かれている

君若蘭の観行:観行における意識作用と意根の過程の共有。

目を閉じ、静寂に入る。意識は見聞覚知が自己ではないことを理解しており、この理解は容易である。そこで意識が一つの言葉を発する:「見聞覚知は私か?」この意識が理解した言葉がゆっくりと落下し、無限に大きく堅固なエネルギー体の上に到達する。このエネルギー体は無始劫以来、見聞覚知を自己と認識しており、その執着は細胞の隅々にまで浸透したかのような堅固さを保っている。
ゆっくりと落下する言葉によって、そのエネルギー体の内側がわずかに揺らぐが、依然として執着から離れることはできない。

「見聞覚知は私か?」意識はなお問いかける。すると内面に恐慌や疑問、諦めきれない想いが生じ、背中が微かに震え、涙が溢れそうになる。このような大きな情動が現れた時、当初は完全に意根の現れだと考えた。しかしさらに観行を深めた結果、この覚受には意根の触発があるものの、より多くは意識の覚受であることが分かる。
再び静寂を取り戻し、巨大なエネルギー体を感じ取ると、それが依然として見聞覚知を自己と執着していることに気付く。この執着は言語表現ではなく、一種の覚受として現れている。

この時、我々が意根に大きな触発があったと錯覚する場合でも、強い感受体験の多くは依然として意識のものであると悟る。無始劫以来の意根の執着は骨髄に刻まれ、細胞に浸透しており、一度の観行で容易に大変化が起きるものではない。

この発見は前述の観察の如く、大きな覚受が現れた後、再び静寂の中で巨大なエネルギー体を観行すると、その執着が依然として深く残っていることに気付く。わずかな触発はあっても、全体の執着に対しては変化を起こすに足りない。

この文章を共有する意図は、このような触発を伴う観行が無数に繰り返される必要があることを示すためである。大きな覚受体験が現れたからといって、意根が完全に正しい認知を受容したと安易に考えてはならない。愚公山を移す精神を持ち、過度の楽観を戒めつつも歩みを止めず、観行を深める中で意根の執着が徐々に減じていくことを信じる必要がある。

評釈:意識の智慧的認知は多層的であり、禅定が深化するに従い、その智慧的認知は不断に強化・深化・具体化・細分化され、真の智慧は証悟後に完成する。それ以前の智慧は未完成で修正を要する。禅定が深まるほど意識の智慧は増し、意根への薫染啓発作用も強まる。意識の認知が具体的で証量を伴うほど、意根への影響は大きい。表面的な理解では効果薄く、深い理解あって初めて意根を触発し得る。

意根の智慧的認知も多層的であり、禅定の深化と意識の智慧の完成に伴い、その智慧は次第に深まり、一定の域に達すると従前の認知を断ち切り、知見を根本から転換して証悟に至る。多くの者が意識の浅い理解段階で証得を自認するが、実際には遥か遠く、数劫を経て初めて証の縁に至る。意識の深い智慧も容易に現れないことを知るべきである。

君若蘭のこの情況は「慧をもって定を引く」に属し、卓越した意識の智慧を用いて心を当下の観行対象に安定させ、散乱なく集中させることで、意識の法的認知を漸次深め、意根の認知を喚起する。更に意識と意根の認知を強化し、層次的に深化する智慧を生む。慧の強い者は慧をもって定を引けるが、慧の弱き者は定を修した後に観行で慧を生む段階を踏む。しかし慧が弱いため心を安定させ難く、反復を要して暫定的に定を保つ。故に慧あれば道は開けるが、前提として福徳が必要であり、福徳は一切の修行の基盤である。

——生如法師の開示
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