衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年02月29日    木曜日     第1 回の開示 合計4132回の開示

初果向における脱胎換骨のプロセス

惟如の観行日誌(24年02月28日)

最近の数日間、身体的反応が特に顕著です。食事量がますます減り、空腹を感じません。頭頂部に膨張感とかゆみがあり、掻くと頭皮が痛みます。眉間と頭頂部は張りつめたような感覚で、額は火に焼かれるように熱く、目を開けるのも辛いほどです。外出や用事を済ませること、人に会うことが不安で、周囲の呼び掛けに反応できず、聞き間違いや誤動作が絶えず、頭が真っ白になり、思うように機能しません。

この頃は何をしていても無意識に忘れ、歩行中に信号待ちで心が沈静化すると、突然頭が空白になり、呆然として自分が何をしているのか分からず、夢遊病者のようで、脳と身体が制御不能になります。時々『楞厳咒』を唱えてこれらの反応を和らげると、周囲の人々や建物、車が果てしない大スクリーンに映し出された映像のように非現実的に見えます。現在、額と眉間の緊張感と熱さは、座禅で目を閉じていると幾分緩和されます。観行法義を実践する時は頭が清浄になり、雑念が起こらず、家族との会話も苦痛に感じます。

以前は師匠が説かれる観行法義が理解できませんでしたが、禅定を得て四念処を観じるようになってから、少しずつ自性の妙用が分かるようになりました。衆生の五蘊身と十八界という道具を観察する中で、自性が妙用を顕現する機能を発見できます。「念仏するのは誰か」「死屍を引きずるのは誰か」などの公案に対し、徐々に深く疑情を起こし、内面にストレス反応が生じ、涙が自然に溢れます。以前は単なる意識心で仏法を学び、聞いて考えて見るだけでしたが、現在は禅定中に思惟するといつもと異なり、深く感動し、この身体がまさに死屍であり、生生世世の六道輪廻において衣を替えるように身体を替えていることを痛感します。今や人事物に興味がなく、是非善悪を分別する意欲も失せ、心は常に観行法義に注がれています。

講評:これは見道以前の身心変容過程であり、徐々に凡夫の身心を脱し聖賢の境界に相応していく段階です。現在は初果向のレベルにあり、この修行過程は不可欠です。身心の変容がなければ永遠に凡夫のままで、意識境界に留まり、意根が熏習されません。身体の変化は禅定によって引き起こされ、心がある程度静まると全身の気血が円滑に巡り、古い業障身が置換されます。

心の変容は次第に世間法と相応しなくなり、人間界の境界相への興味を失い、空と無我に相応し、凡夫の胎を脱し凡夫の骨を替え、我見を断つのは時間の問題です。智慧において小乗法で成就を得るだけでなく、大乗法でも大きな進展があり、自性法に対する現観能力が芽生え、意識的情思意解の成分が一切なく、心中の光明がますます輝きを増しています。この状態であれば、我見を断った後、専心して禅を参究すれば、明心も目前です。

惟如の身心状態から、小乗法の修行は四加行の暖法修行段階を過ぎ、頂法修行段階も経て忍法修行段階に達し、忍法善根を得ています。この後世第一法段階を経れば我見を断じ初果を証得します。大乗法の修行では四加行中の暖法修行段階に達し、暖法善根を得ています。小乗で我見を断った後、大乗の四加行修行は自然に進展し、今生での明心が期待できます。これらの真実の修行から、惟如の全身心境界に貪瞋痴の煩悩の顕現はあるでしょうか。五蘊世間への執着と貪恋はあるでしょうか。世間の五欲享楽への兆候はあるでしょうか。一切ありません。故に実修を真摯に行い、特に未到地定が現前すれば、煩悩を降伏させ、最も粗大な貪欲を断除できます。人間界への貪り、天界への貪りを断てば初禅定が現前し、証果後に初禅定を得て三果証得の希望が十分あります。真に発心して修行に励めば、成就も困難ではなく、世智弁聡に頼る必要はなく、かえってそれが障害となります。

着実に修行する人々は、概して表面上聡明ではなく、饒舌でも自己顕示欲も強くなく、外見は愚鈍に見えても、実直さこそ最大の利点であり、真実不虚の利益を得ます。これに比べ、自称初果・二果の証得を主張する人々に、このような修行過程はあるでしょうか。ほとんど存在せず、身心世界に変化なく旧態依然としており、新鮮味がありません。禅定がなければ、所謂智慧は全て意識の知見であり、意根の内面に透徹せず、古い胎と骨を抱えたまま一切の煩悩を具足し、口先だけ達者で実行力を欠いています。

——生如法師の開示
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