衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2024年02月21日    水曜日     第1開示 合計4126開示

三昧の状態においてのみ法を証することができる

惟如の四念処観行体験:この二年間は主に四念処を観じ、不浄観と白骨観を修してきた。ここ半年ほど、身体には絶えず様々な反応が現れ、師匠は頭を叩くなどの方法を教えてくださり、艾灸や生姜湯で頭を洗うことも教わった。艾灸帽子を被るとだいぶ良くなったが、まだ完全には回復しておらず、頭頂から風が入り込むような感覚がある。今も頭頂に卵ほどの大きさの部分が残っていて、髪を引っ張られているように張って苦しく、少し熱を帯びているが、軽安で気持ち良く、目もだいぶ良くなった。

以前結婚した時に住んでいた家が崩壊した。最初は悲しく残念に思ったが、考え直すと家も人の身体も同じで、どちらも壊れて滅するものだと思い、心を解き放った。病院で舅を見舞った時、入院しているのは皆高齢者で、一人ひとりがチューブを挿して呼吸を保っていた。近頃私は様々な色身を見ると疑情が起こるため、その場で色身の不浄を観じ、ひたすら疑い続けた。突然私は呆然とし、脳裏にこれらの老人が一具また一具の白骨となって現れた。横たわっているのもいれば、臥せっているようなのもいた。すると脳裏にまた、父が火葬された時の粉々の白骨が埃のように現れ、やがて消え去った。

よく考えてみると、親族はこの一世だけの縁に過ぎず、私たちの修行の妨げとなっている。この点を認識した後、その場で親情は薄れ、心は落ち着いて精進修行に励むことができた。心を込めて観想すると、親族や家屋といった事柄の本質も空であり不実であると分かり、考えれば執着を離れ、悲しまなくなる。人事の無常をこの目で見れば見るほど、内心はますます堅固になり、信心はますます強くなり、心空観の法義はますます軽やかになり、妄念は起こらなくなる。

年末年始のこの時期、家の用事で手伝いを頼まれるが、私は聞いたそばから忘れ、繰り返し聞き間違えてやり損ない、覚えていられない。頭の回転がますます鈍くなり、よく失敗する。それだけでなく、頭頂から風が入ったように感じ、頭皮が水に触れたり風に当たると、頭が割れるように苦しい。目と鼻からは絶えず水が出て、目は渇いて物を見ると疲れ、耳はまだブンブン鳴っている。耳の根が壊れたのかと思った。しかし不思議なことに、身体はこのような状態で耳も鳴っているのに、他の音ははっきり聞こえないのに、心身の内も外も全てが仏号の声のように感じられる。以前は心が清浄でなければ脳裏の仏号が聞こえなかったが、最近は焦れば焦るほど思い出せず、ますます呆然とする。するとまるで力が働いて脳裏の仏号の声を押し出しているように感じられ、より一層明瞭に響き渡り、絶え間なく続く。

講評:修行中に身体に現れたこれらの現象は、四念処を修することにより禅定が非常に深まり、念仏三昧と微細な白骨観三昧の状態にあることを示している。内心の念仏の声は自動的かつ自覚的に現れ、現れないようにしようとしても難しい。これが意根が念仏の三昧状態にあり、意識の制御を受けないということである。そして同時に深い観行の智慧もあり、定慧は等しく保たれている。この時は容易に我見を断つことができる。あるいはいつ我見を断ったのか自分でも分からないほどである。

家屋と親族についての感想は意識の理解と分析に属し、実証ではなく、意識の成分が意根よりも多いため現量ではない。一方、病院で現れた白骨観は意根の成分が多く、意識の成分も含む。三昧の境界は比較的浅く、定力はまだ十分ではないため、老人を見てもその場で疑情を起こす必要があり、直ちに白骨が現れるわけではない。もし禅定がさらに深まり、三昧の境界がもっと深まれば、白骨は自動的に眼前に現れ、容易に我見を断つことができる。したがって我見を断つことと明心は、いずれも甚深な禅定の中、三昧の境界の中で、智慧が自動的に顕現し、わざわざ思惟観行せず、意識の制御を受けない、つまり証法の現量境界においてなされる。意識を主とするのは非量と比量の境界である。

頭部の現象は気脈がまさに頭全体を貫通しようとしていることを示しており、一度貫通すれば身体に障害はなくなる。ただこれが任脈と督脈の貫通なのか、中脈もまもなく貫通するのか、データがないため判断できない。しかしこれは我見を断つまで遠くないことを意味し、我見を断った後は禅定がさらに深まり、より多くの祥瑞の景象が現れるであろう。

——生如法師の開示
前へ前へ

無明とは何でしょうか?

次へ 次へ

相似三昧と相似無生忍・無生法忍とは何を意味するのか?

ページトップへ戻る