問:禅定の中で肉体の束縛を脱し、万法の虚妄なる性体を静かに観じ、空と識を捨て、内外の二境を離れ、無所有処に縁って、心内に空しく依る所なく、諸想起こらず、安穏寂静なるこれは典型的な四空定の無所有処定、禅定第七層の高み!あまりに玄妙であるが、どのような方がこの聖境に達しているのでしょうか。
答:これは純粋なる四禅八定の境地であり、聖人の境位ではない。解脱の智慧に関わらず、我見を断つ智慧もなければ、明心見性の智慧もない。純粋な禅定の境地は仏法の外にあり、故に外道定と呼ばれる。仏在世の外道たちにはこの定を得た者が少なくなく、当時の禅定は決して珍しいものではなかった。今の外道たちは既に深い禅定を修得できず、故に末法の世と呼ばれる。末法においては外道すら専門的でないのに、どうして仏法が盛んになりえようか。仏が二千年前にインドに降誕されたのは、衆生の善根が熟し、多くの者が解脱を求めながらその方法を知らず、禅定こそが生滅の苦を解脱させると考え、競って禅定を修め、精進を重ね、仏法の外道となったからである。仏は衆生を憐れみ、この世に降誕され、甘露を注ぎ、衆生の苦しみを除かれたのである。
もし今、無色界の四空定を修め神通を現じる者が現れれば、衆生は狂乱の如く崇拝するであろう。もしその者が仏教を支配せんと企み、他の教えを広め衆生を籠絡すれば、凡夫は到底抗しえず、看破することさえ叶わず、どうしてこれを打破できようか。後世にこのような魔が仏法を乱す時は、四禅八定と大神通を具えた菩薩のみがこれを破り、衆生が魔道に堕ちるのを防ぐのである。経典に説かれる如く、一切の外道は登地の大菩薩のみが打破し、八地の菩薩は一切の外道を破り、八地以下から初地までは一部の外道を破る。凡夫は外道と魔に礼拝するのみで、看破する智慧を持たない。故に邪を破り正を顕すは凡夫の為し得る所ではなく、一般の衆生は邪を破る力なく、共犯者とならぬだけでも善しとすべきである。衆生は見識を深め、理性を養い、感情に流されず、盲従を慎むことで、魔の便りを減らし、魔難を少なくするべきである。
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