問:断悪修善の段階にある衆生は、一切の悪法はすべて如来蔵性であり、その本質はすべて如来蔵であると直接観行することができるでしょうか。戒を犯した者は、無相懺悔法によって罪を滅することができ、開悟すれば戒行は清浄になる、と主張する人もいます。このようなやり方は適切なのでしょうか。
答:修行は個人の根機と具体的な状況に応じて行うものであり、いずれも次第にしたがって修すべきであって、等を躙いで飛び越えることはできません。さもなければ、悪取空の迷いの現象が生じやすく、野狐禅を現して、業障をいっそう重くし、修行が明進暗退する結果となります。
断悪修善の段階にある衆生が、直接に悪法を如来蔵性であると観行するならば、二つの異なる結果が現れます。一つは、如来蔵は空であり、悪法もまた空であると知るので、これ以上悪法を造る必要はないと感じ、それによって心が次第に清浄になっていく、これは大根器の衆生の観行の結果です。もう一つは、悪業を造ることを意に介さず、自分の心を束縛せず、放浪形骸するもので、悪法もまた如来蔵の法であるから悪法に執著する必要はなく、みだりに悪を造っても、いずれにせよすべて如来蔵の空性であり、真の悪法は存在しないのであり、如来蔵に帰依すれば悪法も悪果もない、と考えるものです。これは愚痴な劣根の人の邪見 (mithyā-dṛṣṭi) と誤解であり、果報は善くありません。
少なからぬ人が自分を大根器の人だと考えていますが、実際には娑婆世界において、現在、大根器の人は極めて稀であり、煩悩も業障も決して軽くはありません。それゆえ、修行においては、断悪すべきときは断悪し、修善すべきときは修善し、この段階を飛び越えて、善悪の心性の転換を無視してはなりません。一心に理に陥りながら、事の上ではなお迷い倒れているようではなりません。善悪の法をいずれも如来蔵のそのような空とみなし、悪を断めず善を修めずして、悪業が遮障し、善法が助けず、福德が具足しなければ、どのようにして戒定慧を円満して見道に至ることができるでしょうか。空を口先に掲げても、心の中で本当に空になり得るのでしょうか。まったくなり得ません。心が空でなければ、果報は依然としてあり、やはり解脱を得ることはできません。
同じ道理で、戒を犯した者が無相懺によって罪を懺悔し、罪業を滅除することを期するのは、おそらく一般の人には実相を見ることはできず、罪を滅し業を消すことはできません。実相を見なければ、罪業をどのようにして消すことができるでしょうか。では、どのような人が実相懺によって罪を懺悔できるのでしょうか。それは見道から遠くない人であるべきです。三十七道品と六度がいずれも円満に近いところまで修められ、心性が善に向かい、業障が軽くなっていれば、このような因縁の熟する時に、仏菩薩の加持によって実相懺悔を通じて実相を見ることができ、それによって罪を滅し業を消すことができるのです。
大乗法を学んだ後、自分の悪行に口実を見つけるのが容易になる人がいます。これらの悪いことをしても、本当にしたことにはならず、関係ない、すべて空なのだ、と言って、心安らかに構え、慚愧の心なく、悪心を改めず、善心を現さないのです。このように空性に迷えば、やはり野狐禅であり、因果の審判から逃れることはできません。
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