衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年02月01日    木曜日     第1開示 合計4108開示

なぜ虚妄と知りながら、一切法が非常に真實に感じられるのか?

問:私は一切の法が虚妄であると理解しているのに、なぜ山河大地や草花樹木を見ると、依然としてあれほど真実に感じられるのでしょうか。寒さや熱さ、触覚や痛みの感覚も、なぜ依然としてあれほど真実なのでしょうか。

答:一切の法が虚妄であるというご自身の認識は、学んだ仏典の理論に基づく知識であり、実証されたものではなく、現量(直接知覚)による体験や観察が伴っていません。したがって、そのような理解は無知に等しいのです。実修を経て実証を得た後、初めてそれぞれの法に接する瞬間に自ら体感することができ、その時の知覚・感覚・認識こそが真実で現量的であり、信頼でき依存できるものとなります。学んだ知識には信頼性がなく、依存できず、疑念が絶えません。一切の法が虚妄であることを証得した後、一切の法を変容させ、一切の法の束縛を受けないためには、四禅八定を修行し、色陰区宇・受陰区宇・想陰区宇・行陰区宇・識陰区宇を超越する必要があります。そうして初めて一切の法から解脱し、一切の法を超越し、一切の法を変容させることができるのです。

多くの人々はたとえ仏典を諳んじても我見を断つことができず、明心見性することはおろか、一切の法の虚妄性を証得することなど到底できません。ましてや一つの講義を聴いただけで我見を断つなどというのは、全くの空想に過ぎません。たとえ百万回の講義を聴いても、おそらく我見を断つ端緒すら掴めないでしょう。なぜならこれは単に耳で聞くだけで実証できるものではなく、耳で聞くのは知識や理論に過ぎないからです。理論を実際のものとし、自らの現量の智慧とするためには、その間に多くの工程を経る必要があり、これらの工程を完遂するには相当な代償を払わねばなりません。何の代償も払わず、のんびりと講義を聴いているだけでは、それらの教えは耳元を過ぎる風のように一瞬で過ぎ去り、ほとんど痕跡を残しません。なお、これはあくまでその教えが正しく誤りがないことが前提であり、もし誤りがあれば、我見を断つことはさらに見当違いのものとなってしまいます。

小乗における我見を断つことと、大乗における明心見性は、いずれも智慧による認識であり、従前の誤った邪見を正すものです。しかし智慧による認識だけでは法そのものの状態を変えることはできません。法そのものの状態は、禅定や神通の力によって変容されるものであり、その中にはシャマタ(奢摩他・止)、サマーディ(三摩鉢提・等持)、ゼンナ(禅那・静慮)という三つの修行方法が含まれます。これら三つの修行が円満に成就した後、初めて身心世界のすべてが転変し、仏の清浄円満なる境界へと転じます。ここに至って仏道は成就するのです。具体的な修行方法はすべて円覚経に明示されています。

——生如法師の開示
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迷妄なる空性はなお野狐禅なり

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