問:私は一切の法が虚妄であると分かっているのに、山河大地や草花木々を見ると、なぜ依然としてあれほど真実に感じられるのでしょうか?寒さ熱さ触覚痛覚も依然として真実に感じられます。
答:自ら一切の法が虚妄であると考えるこの認識は、学んだ仏典の理論に基づく知識であり、まだ実証を得ておらず現量の体験と観察が不足しています。故にこの知は不知に等しいのです。実修を経て実証を得た後、各法に接するその瞬間に初めて自ら体得できるもので、その時の知覚・感覚・認識こそが真実で現量的であり、信頼・依存に値します。学んだ知識には信頼性がなく、疑惑が残ります。一切法が虚妄であることを証得した後、一切法を変容させ束縛を受けないためには四禅八定を修行し、色陰区宇・受陰区宇・想陰区宇・行陰区宇・識陰区宇を超越せねばなりません。これによって初めて一切法から解脱し超越し変容させられます。
多くの人々は仏典を暗誦できても我見を断じられず、明心見性も叶わず、まして一切法の虚妄を証得できません。ましてや一つの講義で我見を断じるなど全くの空想にすぎず、百万回講義を聴こうが我見を断つ端緒さえ掴めないでしょう。これは耳で聞くだけで実証できるものではなく、耳で聞くのは理論知識に過ぎないからです。理論を現実化し自らの現量智とするには、多くの工程を要し、これらの完成には多大な代償が必要です。何の代償も払わず悠々と講義を聴くだけでは、それらの法は耳元を過ぎる風の如く一瞬で消え、痕跡を残しません。ましてや教えが誤っていた場合、我見を断つことは更に縁遠いこととなります。
小乗の我見断絶と大乗の明心見性は共に智慧の認知であり、従前の誤った邪見を是正します。しかし智慧の認知だけでは法そのものの状態を変えられず、法自体の状態は禅定と神通力によって変化させます。その中には三種の修行法、すなわち奢摩他・三摩鉢提・禅那があり、これら三つの修行が円満した時、身心世界が全て転変し仏の清浄円満なる境界へと転じ、ここに仏道が成就します。具体的な修行方法は全て円覚経に説かれています。
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