衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年02月01日    木曜日     第2開示 合計4109開示

迷妄なる空性はなお野狐禅なり

問:悪を断ち善を修める段階にある衆生は、直接に一切の悪法が如来蔵性であり、本質はすべて如来蔵であると観行することはできるでしょうか。また、戒を犯した者が無相懺悔の法を用いて罪を滅し、悟りを開いた後には戒行が清浄になるという主張がありますが、これは適切でしょうか。

答:修行は個人の根基と具体的な状況に基づいて安排すべきであり、すべて次第に修めるべきで、順序を飛び越えてはなりません。そうでなければ、悪取空の迷昧な現象が生じやすく、再び野狐禅(やこぜん)が現れ、業障がより重くなり、修行が表向きは進んでも実質は退転する結果を招きます。

悪を断ち善を修める段階にある衆生が、直接に悪法が如来蔵性であると観行すると、二つの異なる結果が生じます。一つは、如来蔵が空であることを知り、悪法も空であると理解するため、これ以上悪法を造る必要はないと考え、心が次第に清浄になっていくという結果です。これは大根器の衆生の観行による結果です。もう一つの結果は、悪業を造ることを気にせず、自らの心を束縛せず、放縦に振る舞うことです。なぜなら、悪法も如来蔵の法であると考え、悪法に執着する必要はなく、自由に悪を造っても、いずれにせよ如来蔵の空性であり、真実の悪法は存在せず、如来蔵に帰依すれば悪法も悪果もないと思うからです。これは愚痴で劣った根器の者の邪見と誤解であり、その果報は不善です。

多くの人が自分は大根器であると思っていますが、実際には娑婆世界において現在大根器の者は極めて稀であり、煩悩や業障も軽くはありません。したがって、修行においては悪を断つべき時には悪を断ち、善を修めるべき時には善を修め、この段階を飛び越えて善悪の心性の転換を軽視し、理にばかり没頭して事の上では依然として迷いと倒錯に陥ってはなりません。善悪の法をすべて如来蔵の空であると見なし、悪を断たず善も修めなければ、悪業が障りとなり、善法は助けとならず、福徳が備わらないのに、どうして戒定慧を円満して見道することができるでしょうか。口先で空を唱えれば、心は本当に空になるのでしょうか。決してなりません。もし心が空でなければ、果報は依然として現れ、解脱を得ることはできません。

同様に、戒を犯した者が無相懺悔によって罪を懺悔し、罪業を滅除しようと望むことは、おそらく一般的な人々には実相を見ることができず、罪業を滅し業を消すことはできません。実相を見なければ、どうして罪業を消すことができるでしょうか。では、どのような者が実相懺悔によって罪を懺悔できるのでしょうか。見道に近い者、すなわち三十七道品と六度がほぼ円満に修められ、心性が善に向かい、業障が軽くなった者です。このような者が因縁が熟した時、仏菩薩の加護を得て、実相懺悔を通じて初めて実相を見ることができ、それによって罪業を滅し業を消すことができるのです。

大乗法を学んだ後、自分の悪行を「これらの悪事は本当に行われたわけではない」「大丈夫、すべては空である」と言い訳し、心安らかに慚愧の心もなく、悪心は改まらず善心は現れない者が少なくありません。このように空性に迷い惑うことは、依然として野狐禅であり、因果の審判から逃れることはできません。

——生如法師の開示
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