問:臨命終の時、五陰(色身及び妄心、即ち受想行識)が幻滅し、中有の身が未だ生起せず、残るものが真如であるという説があります。これを「父母未生以前の本来の面目」と称し、実際には「死後は何か」「死後の面目は何か」と参究すべきだとする説は正しいでしょうか。
答:この説は明らかに誤りです。死後に中有の身が生起しない期間は真如ではなく、第七識・第八識の和合体です。第四果の阿羅漢でなければ、意根は決して断滅しません。この時点で悟ることは不可能です。意識が存在せず、意根単独では悟りの機能を果たせないため、意識と意根の二者が同時に参究し、更に業障の遮りが無くなって初めて、悟りの可能性が微かに生じるのです。
中有の身が生起する以前には第七識と如来蔵が存在し、真如のみが存在するとは言えません。真妄和合の状態を真如と混同してはなりません。この種の悟りは推測に過ぎず、不悟と変わりありません。中有の身が生起する前は第七識と如来蔵のみが存在し、この状態では悟る手段がありません。意根単独では如来蔵を認識できず、六塵すら明確に弁別できない状況で、ましてや如来蔵のような隠微な存在をどうして認識できましょうか。仮に中有の身が現れ意識が生じたとしても、悟りは極めて困難です。意識が極めて微弱で弁別力が乏しく、どうして悟りを得られましょう。また中有の状態は極めて特殊な時期であり、生死が交替する時節です。業障が完全に顕現し五陰身を支配し、来世の去向も定まらぬ中で心中は極度に恐慌状態にあります。このような状況で如何にして平静を保ち悟道できましょうか。
我見を断じていない者が死後、中有の身が生起しない期間、意根は極度に恐慌状態にあります。自我の消滅を恐れ、あらゆる手段で出路を求めているのです。真如云々に心を留める余裕などありません。この時、意根の我執は依然として強烈で、どうして五陰六識が滅した後の空白を真如と認められましょうか。全く不可能です。むしろ前念不生・後念不起の間の空白の方が悟り易いと言えます。なぜならこの時は畢竟、清明で安定した意識の知が禅定中に存在するからです。生存中に死後の面目を参究することは可能ですが、依然として困難を伴います。死後も真妄和合の状態が続き、真のみが存在するわけではないからです。「死屍を引きずるものは誰か」という公案を参究する方が容易です。死後に悟道を期すことは、いかなる指導があろうとも極めて困難です。故に死後に望みを託すことなく、生存中に全身全霊を込めて修行に励むべきです。
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