衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年01月22日    月曜日     第1開示 合計4103開示

死後に残る不滅のものは真如であるか

問:ある人が、臨命終の時には五蘊(色身及び妄心:いわゆる受・想・行・識)が幻のように滅し、中有身が未だ生じていない時、残るものは真如であると言いました。これが父母未生以前の本来の面目であり、実際には「死後は何か?」「死後の面目は何か?」と参究するように改めてもよいというのです。この説は正しいでしょうか?

答:この説はもちろん正しくありません。死後、中有身が生じる前は真如ではなく、第七識と第八識の和合体です。意根は決して断滅しません。四果の阿羅漢を除いては。この時は悟ることはできません。意識がないため、意根が単独で悟れるほど強くはなく、意識と意根の二者が同時に参究し、さらに業障の遮りがなければ、かろうじて悟りの望みが少しあるのです。

中有身が生まれる前には、第七識と如来蔵があります。この時、真如だけがあると考えることはできません。真と妄が和合している時、妄を真と見なしてはならず、真妄和合は真如ではありません。このような悟りは推測や想像による悟りであり、悟らないことと変わりありません。中有身が生まれる前は、第七識と如来蔵だけがあり、この時は悟る方法がありません。意根が単独で如来蔵を識別できないからです。六塵すら具体的に了別することができないのに、ましてやあれほど隠微な如来蔵をどうして識別できましょうか?たとえ中有身が現れ、意識が現れても、悟るのは非常に困難です。意識が極めて微弱で、識別力が非常に低いからです。どうして悟ることができるでしょうか?さらに、中有身はこの時、極めて特殊な時期にあり、まさに生死が交替する時で、業障が完全に現れ、五蘊身の主宰となっています。来世の行く末は未定で、心中は極度の恐慌状態です。このような状況下で、どうして平静を保って悟道できるでしょうか?

我見を断っていない人は、死後、中有身が生じる前、意根は非常に恐慌状態にあります。自我が消失し滅びることを恐れ、あらゆる手段で出路を探そうとします。真如かどうかなどに気を配る余裕などありません。この時、意根の我執は依然として非常に重く、どうして五蘊・六識が滅した後の空白を真如と認めることができましょうか?全く不可能です。これならば、前念が生ぜず後念が起こらない中間の空白の方が、むしろ人を悟らせやすいです。なぜなら、この時には少なくとも清明で落ち着いた意識の知があり、まだ禅定の中にいるからです。生きている間に、死後の面目を参究することはできますが、それも比較的困難です。死後も依然として真妄和合であり、真だけがあるわけではないからです。「死屍を引きずるのは誰か」と参究する方が、まだ容易です。死後に悟道しようと望むことは、誰かに導かれようとされまいと、極めて困難であり、願いが叶うことはほとんどありません。ですから、死後に望みを託すのではなく、生きている間に全身全霊を込めて努力し、修行に専念すべきです。


——生如法師の開示
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人は死後に悟りを開くことはできません

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