衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年01月25日    木曜日     第1開示 合計4104開示

人は死後に悟りを開くことはできません

問:ある者は、死後に悟りを開くことができると考えている。死後、五陰が散壊し、四大が分離し、中有身がまだ生じていない間隙こそが真如であると言う。どうも彼の言うこの状況は、無余涅槃に似ているように思える。師匠、詳しく説明してほしい。この人物は悟りを開いた者と言えるのだろうか。

答:もし五陰が散壊し、四大が分離し、中有身がまだ生じていない間隙が真如であると言うならば、その時は真如以外には何も存在せず、意根もなく、六識もなく、色身もなく、ただ真如だけがあるはずだ。それはすなわち無余涅槃の状態であり、すでに三界の生死の苦から解脱していることになる。もし全ての人が死後に無余涅槃の状態になるのなら、我々が苦労して四念処観を修学し、四聖諦の理を修学し、我見を断って解脱を求める必要がどこにあろうか? 仏陀がこの世に来て阿含経を説き広め、衆生が解脱を得ることを教えることも、同様に全く意味がなくなってしまうのではないか? 明らかにこれは非常に誤った見解である。

死後、中有身が未生のこの間隙において、色身と六識はすでに滅しているが、意根は決して滅することはできない。そうでなければ、どうしてしばらくして中有身が現れることができようか? どうして来世の五陰世間が存在し得ようか? 意根が中有身を必要とするからこそ、如来蔵が中有身を生じさせて意根の要求を満たすのである。凡夫や三果の聖者以前の意根が滅することはありえない以上、この間隙には七・八の二識が存在している。どうしてこれを真如と言い得ようか? 仮に一歩譲って、この時ただ真如だけが存在し、それがすなわち真如であり、無余涅槃の境界であるとしても、では悟りを開くのは誰なのか? 六・七識が存在しないのに、誰が悟るというのか? まさか真如が自ら自らを悟るというのか? 明らかにそうではない。

死後のこの間隙に意根がまだ存在し、七・八の二識が互いに離れることなく共存しているなら、この時に悟りを開くことは可能だろうか? もし可能だとしても、それは意根単独の悟りであり、意識の補佐がなく、意識が意根を導いて「これが真如である」と説くこともない。意根単独で、真如を識別するほどの大いなる智慧を持ち得るだろうか? 明らかに不可能である。そうでなければ、衆生が死後に悟る確率はあまりにも高くなり、多くの人が早く死ぬことを望んで聖果を得ようとするだろう。以上の思惟分析を通じて、この人物が悟っているかどうかは、私が明言するまでもなく、ご自身で判断されたい。


——生如法師の開示
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死後に残る不滅のものは真如であるか

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理論と事実の弁証法的関係

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