衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年01月20日    土曜日     第1 回の開示 合計4102回の開示

八関斎戒ではなぜ香や花を身につけることが禁止されているのでしょうか?

この問題は逆方向から考える必要があります。なぜ多くの人が香り高い花で身体を飾ることを好むのでしょうか?身体を飾ることにはどんな意味があるのでしょう?男女が身だしなみを整える目的は何でしょうか?衆生は覚った心を持たないため、自分と他人の日常的な行為を省みず、習性や習慣に従い、自らのあらゆる心の動きに流されるままです。これがどのような心の状態か理解していません。衆生の全ての心の動きは究極的には身見と心見に帰着し、合わせて我見となります。我見が深重であるため、時と場所を問わず自然に表れ、隠す心もなく、抑制することもできず、これが誤りであり邪見であることを知りません。生死の穴に落ちて自ら抜け出せず、仏が救いの手を差し伸べるのも困難なのです。

身体を我と見なすことを身見と言います。衆生は無意識のうちに、あらゆる時と場所で自分の色身に気を配り、他人が自分をどう見ているか、どう評価しているか、どうすれば受け入れられ好かれ尊敬されるかを気にかけます。そうして自然に他人の注目を集めようとします。身だしなみに非常に気を遣う人々は皆、身見があるからです。髪をかきむしり姿勢をくずしたり、職業的な微笑みを作り、頻繁に髪や手を触り、顔を拭い、服を直すといった過剰な身振りは、全て人の身見を表しています。身体への執着を一瞬たりとも忘れられず、常に身体を意識していることから、衆生の身見がいかに深いかが分かります。

身見とは何かを知れば、他人に身見があるかどうか、どれほど深刻かを観察できるようになります。そうすればその人が身見を断ったかどうか、善知識であるかどうか、その教えが我見を断つ導きとなり解脱へ向かわせるかどうかが分かります。衆生は普遍的に無知であり、仏典を学ぼうとしないため正しい判断力を欠き、欺かれやすく偽りを真実と思い込み、邪道に極めて多くの時間と精力を浪費しているのです。

我見を断つとはどのような身心の状態か、その表現を知らない限り、説法者も聴衆も自らの身見や我見を隠すことができず、どう偽装すればよいかも分かりません。説法者も衆生が無知で理解できないことを承知しており、わざわざ偽装しようとしないため、愚かさが愚かさを量る状態で、誰も愚痴の穴から抜け出せません。詐欺師が世に蔓延するのは、世の中の土壌が彼らに適しているからです。この土壌とは衆生の愚痴と無知そのものです。つまり衆生の業力が偽善者を呼び寄せ、引き寄せているのです。

本題に戻りますと、仏陀が戒律を制定し衆生の身口意の行いを規制されたのは、衆生が誤った身口意の行いを制し、身見我見を調伏し、我見を断つ基礎を作り、明心見性の基盤を築き、禅定の土台を整えるためです。故に戒を受け守ることを望まず、戒律を遵守しない者には禅定は生じず、自心を調伏して我見を減らすこともできず、我見を断ち明心見性することもありません。

禅定もなく戒律も守らない者が、証果を得て心を明らかにし本性を見たと主張するなら、それはいったい何の果を証し、どのような心を明らかにし、どんな本性を見たというのでしょうか?だからこそ、人々を証果や明心へ導くと言いながら、学ぶ者に煩悩に従うよう勧め、戒相を捨て有相戒を守るなと主張する人々が現れるのも不思議ではありません。彼ら自身の煩悩が極めて深いからです。全ての衆生を愚か者と見做して欺くことは非常に不明知な行為です。娑婆世界は畢竟仏陀の国土であり、衆生は仏陀の子民なのです。仏陀の大慈悲心をもって、どうして衆生への配慮と教化を放棄できましょうか。どうして衆生を見捨てて悪意の欺瞞に委ねることができましょうか。

——生如法師の開示
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