この問題は逆方向から考える必要があります。なぜ多くの人が香花を身に塗ることを好むのでしょうか?身を飾ることに何の意味があるのでしょうか?男女が自らを装飾するのは何のためでしょうか?衆生は覚りの心を持たず、自己と他者の日常的行為を省みず、自問することもなく、自らの習気習慣に従い、自らのあらゆる心の動きに流されています。これがどのような心の働きであるかを知らないのです。衆生のあらゆる心の働きは究極的には身見と心見に帰着し、合わせて我見となります。我見が深重であるが故に、時処を問わず表出し、隠そうとする心もなく、隠すこともできず、抑制することもできません。これが誤りであり邪見であることを知らず、生死の穴に陥って自ら抜け出せず、仏でさえ救い出すことが困難なのです。
身を我と見なすことを身見と呼びます。衆生は無意識のうちに、あらゆる時と場所で常に自らの色身を気遣い、他人が自分をどう見ているか、どう評価しているか、どうすれば他人に受け入れられ、好かれ、崇敬されるかを気にかけます。それゆえ知らず知らずのうちに他人の視線と注意を引きつけようとします。自らの身なりを殊更に気にする人々は皆、身見があるからです。首をかしげたり姿をくねらせたり、作り物の振る舞い、職業的な微笑み、絶え間ない髪や手の触れ合い、顔を拭う動作、衣服の整え方──これら無数の小さな動作は全て、人の身見を表しています。身体への感覚を一瞬たりとも無視できず、常に自らの存在を忘れられないことから、衆生の身見がいかに重いかが分かります。
身見とは何かを知れば、他人に身見があるかどうか、どれほど深刻かを観察できるようになり、その人が身見を断じたかどうか、善知識であるかどうか、その教えが我見を断つ導きとなるかどうか、あなたを解脱へと導くかどうかが分かります。衆生は普遍的無知にあり、仏経を学ぶことを拒むため、正しい判断力を欠き、騙されやすく、偽りを真実と見做し、邪道に極めて多くの時間と精力を浪費しているのです。
我見を断つとはどのような身心の状態か、どのような身心の表れかを知らなければ、説法者も聴衆も自らの身見・我見を隠すことができず、隠し方も分からず、装うこともできません。説法者も衆生の無知を承知しており、わざわざ偽装したり隠したりしません。これが愚者が愚者を救う状態で、誰も愚痴の穴から脱出できないのです。詐欺師が世に蔓延するのは、世の中の土壌が適しているからです。生存と繁殖に適した土壌とは、衆生の愚痴と無知なのです。つまり衆生の業力が偽善者を呼び寄せ、引き寄せているのです。
本題に戻りますと、仏陀が戒律を制定し衆生の身口意の行いを規制されたのは、衆生が自らの誤った身口意の行いを調伏し、自らの身見・我見を調伏させ、我見を断つ基礎を築き、明心見性の基礎を築き、禅定の基礎を築くためです。故に戒を受けて守ることを望まず、戒律を遵守しない者には禅定が現れず、自心を調伏できず、我見を減らすこともできず、我見を断つこともできず、明心見性もできません。
禅定もなく戒律も守らない者が、証果を得て心を明らかにし性を見たと主張するなら、それはいったい何の果を証し、どのような心を明らかにし、どのような性を見たというのでしょうか?それ故、人々を証果や明心へ導く者たちが、なぜ随学する者に煩悩に随順すべきだと説き、戒相を捨て有相戒を守るなと主張するのか、不思議ではありません。彼ら自身の煩悩が極めて重いからです。全ての衆生を愚者として欺くことは極めて非賢明な行いです。娑婆世界は畢竟仏陀の国土であり、衆生は仏陀の子民なのです。仏陀の大慈悲心をもって、どうして衆生への配慮と救済を放棄できようか。どうして衆生を見捨てることができようか。どうして衆生が悪意に騙されるままに放置できようか。
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