現代の多くの人々の修行は意識に偏っており、全てを意識を中心として論じています。第八識と第七識を区別できないだけでなく、五識さえも明確に区別できません。それにもかかわらず、自分は悟ったと主張する人が少なくありませんが、彼らの悟りは八つの識の和合状態、あるいは四つの識の混合状態に過ぎず、第八識単独の働きでは決してありません。これは悟っていないのと同じです。五蘊十八界の活発な活動の中で、八つの識の本質を明確に見分けることこそが大いなる智慧です。もし全てをまとめて「一緒に悟った」と言うなら、それは何の意味もなく、悟ってもいないのと同じです。
五識、第七識、第八識の全てを意識と結びつけて論じ、意識を離れると他の識の本質や特徴を説明できなくなるなら、その人は意識しか観察できず、他の識を観察できないことを示しています。その智慧はあまりにも浅いのです。もし全ての本質が意識のものであり、他の識の本質は意識によって与えられたものだと言うなら、それは唯意識論であり、その人にはほとんど智慧がありません。
唯意識論は、三つの束縛(三縛結)を断ち切った悟りの聖人が街に溢れる結果をもたらしました。もしこれを容易で珍しくないことだと思う人がいれば、それは明らかに見道(悟りへの道)の方法を誤解しており、臨終に必ず後悔するでしょう。衆生は実に哀れです。修行の経験がないため、ある虚偽の教えを誤って信じ、仏の説を信じなかった結果がこれなのです。この責任を誰が、どのように負うべきでしょうか。三悪道(地獄・餓鬼・畜生)は決して楽しい場所ではありません。誰もが自分自身をよくよく省みるべきです。今日、仏法は深刻に誤解されています。多くの人が経典を読み、仏の言葉を信じていても、必ずしも理解できているわけではありません。それにもかかわらず自分は理解したと思い込み、ましてや人から聞いた説に依存しています。
あらゆる修行法門の実践者は、自分が学ぶ方法や方向の正しさを強く確信し、自分が悟った内容の正しさと真実性を固く信じています。要するに、自分自身と、自分が師事する人や教えを信頼し、決して道理にかなった思考を心に起こそうとしません。これが衆生の業の力です。元音老人が師匠に智慧と悟りの深さを問われた時も、恭しく両手で存在しない月を捧げ、師匠の前に差し出しました。これは「これが自性清浄心、真如である」という意味でしたが、これが一体どれなのかは分からず、禅宗の祖師たちの機鋒(問答による悟りの試し)と全く同じでした。多くの人の悟りは、外見は同じように見えても、その内実は何なのか? 衆生は智慧がないため、往々にして外見に目を惑わされ、物事の真の姿(廬山の真の姿)を見抜けません。衆生は愚鈍ですが、誰も自分が愚鈍だとは認めず、皆自分は特別だと思っています。これが衆生の自我執着(我性)です。
これほど多くの人々の自信は、結局は自分自身を害し、他人をも害します。たとえ業報が訪れても、この点に気づかないかもしれません。ましてや業報の因縁が熟していない時はなおさらです。これほど愚鈍な衆生が、どうして教えを聞いたその瞬間に、意識でわずかに考えただけで、自我の見解(我見)を断ち切り、さらには心を明らかにして悟りを開くことができましょうか? どうして無数の人々が理論を整理し消化しただけで聖者の境地(証果)に至ることができましょうか? 末世の時代は、確かに恐ろしいものです!
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