公案を参じる:「念仏するのは誰か?」ここで参究しているのは誰か?それは如来蔵を探しているのか、それとも意根を探しているのか、あるいは第六識を探しているのか?念仏する時、第六・第七・第八の三識が共に関与しているが、真の念仏と偽の念仏の区別がある。表面で念仏する者が必ずしも念仏できるわけではなく、念仏できないと思われる者が真に念仏している場合もある。甚深なる三昧の定境を証得した時、第六識は念を起こさなくなる可能性があり、念を起こさなければ念仏しなくなる。ただ第七・第八の二識が念仏の三昧定中にある。真に念仏できるもの、念仏の鍵となるのは誰か、これが非常に重要であり、参禅が求めているのはこの識心である。念仏できるこれらの識心には、必ず念心所があるはずで、そうでなければ念仏できず、念を起こさずしてどうして念仏できようか?最初は三識共に念仏に関与するなら、三識には必ず念心所があり、念心所がなければどうして念仏できようか?
あらゆる法の運作には如来蔵が関与しているため、ある人々はこの特徴あるいは理論に基づき、五蘊十八界の運作する某些の法の中に如来蔵があると推測し、如来蔵はこのように運作し、おおよそこのような作用を及ぼすと推論し、そこで自分が悟りを開いたと考える。実際には、五蘊十八界のいかなる法の運作も八識の和合運作によるものであり、如来蔵単独の運作の結果ではない。もし自分が如来蔵を証得したと言うなら、五蘊十八界の運作過程において八識全てを見出し、区別でき、明確にどの識が如来蔵であるかを指摘し、具体的に如何に運作するかを説明し、同時に七識の機能作用を真実でないと否定し、五蘊が確かに無我であることを証得しなければならない。これが真の開悟明心であり、そうでなければ解悟ですらない。
実際、大多数の人は推論で導き出すことができず、あちこちで情報を集め、他人から暗示を受ける。もし暗示が正しければ良いが、肝心の暗示を与える人も五蘊十八界における八識の区別、運作方法、作用の詳細を理解しておらず、人参と長葱を混同して「これが如来蔵の作用だ」と教え、これを知れば証悟したことになると言う。しかしこれが証悟からどれほど離れているか測りようもないのに、断固として悟ったと自認する。実際には誤りであり、自他を誤らせる過ちで、誠に哀れむべきである。このような誤りに陥った人々に私は幾人か出会ったが、彼らは基本的な戒律も守れず、基本的な仏法の知見も備わらず、基本的な禅定もなく、貪瞋痴の煩悩に苛まれ、おそらく仏法初心者に属するだけである。
念仏という法相は、八識が共同で和合運作して現れるものだ。もし人が「念仏するのは如来蔵である」と推測し、この推測結果をもって如来蔵を悟ったとし、明心に属するとするなら、そもそも如来蔵は本当に念仏できるのか?もし如来蔵が念仏できるなら、第六識を滅して如来蔵に自ら念仏させ、意根を滅して如来蔵に自ら念仏させることができるはずだ。そうなれば無余涅槃においても如来蔵は同様に念仏でき、無余涅槃は依然として寂静無為と言えるか?涅槃の境界と言えるか?明らかに違う。故に「如来蔵が念仏する」という結論は誤りであり、明心証悟に属さず、多くは解悟の域に過ぎず、解悟の端にも触れない。もし如来蔵が念仏できるなら、臨終時に六識と意根が如何に劣悪で、如何に貪瞋痴に満ち、業障が如何に深重であろうとも、如来蔵が念仏すれば足り、阿弥陀仏に感応し、極楽浄土へ迎えられるはずだ。
同様に、自ら開悟し如来蔵を証得したと考える人々は皆、ある法の運作が如来蔵の機能作用であると推測したためである。しかし実際には、いかなる法も如来蔵単独で作用するものではなく、八識和合運作の結果であり、その中に真と妄が混在している。妄法を否定せずに、どうして真の如来蔵を証得できようか?真妄の八識を区別できず、どの識が妄でどのような作用をし、どの識が真で具体的にどのように作用するか分からなければ、どうして真如を証得できよう?真妄共同作用の法を全て如来蔵の機能作用と見做すことが、果たして開悟して如来蔵を証得したと言えるのか?
もしこれで如来蔵を証得したとするなら、如来蔵の運行法則に従い、如来蔵は一切法の中で運作し、一切法に関与しているのだから、具体的な某一法を指して「これが如来蔵だ」と言えば、大多数の人が如来蔵を証得し明心開悟できることにならないか?全世界の真妄を区別できない人々が、如来蔵の体性を少し知るだけで皆開悟できるのか?戒律を守らず禅定を修めず、深い般若智慧もなくても開悟できるのか?三十七道品を修めず、菩薩の六波羅蜜を実践せず、我見を断たずに、速やかに明心開悟できるのか?
仏教における水の深さと濁りは、どれほどの求道者を溺れさせているか、いったい誰が知り得よう?どう対処すべきか、誰が知り得よう?
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