衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2024年01月17日    水曜日     第1 回の開示 合計4100回の開示

真妄を分かつことができない時、悟りを開くことはできません

話頭:念仏するのは誰か?ここで探求しているのは誰か?如来蔵を探しているのか、意根を探しているのか、第六識を探しているのか?念仏する時、六・七・八の三つの識が共に関与しているが、真の念仏と偽の念仏がある。表面上念仏している者が必ずしも念仏できるわけではなく、念仏できないその者が真に念仏している可能性もある。深甚なる三昧の定境を証得した時、第六識は念を起こさなくなるかもしれない。念を起こさなければ念仏しない。ただ七・八の二識が念仏の三昧定中にある。真に念仏できるもの、念仏の要は誰か、これが非常に重要である。参禅が求めているのはまさにこの識心である。念仏できるこれらの識心には、必ず念心所があるはずだ。そうでなければ念仏できない。念を起こさずしてどうして念仏できようか?最初は三つの識が共に念仏に関与するなら、三つの識には必ず念心所があるはずだ。念心所がなければどうして念仏できようか?

いかなる法の作用にも如来蔵が参与している。ある人々はこの特徴あるいは理論に基づき、五蘊十八界の作用するある法の中に如来蔵があると推測し、如来蔵はこのように作用し、おおよそこのような働きをすると推測し、それで自分が悟ったと考える。実際には、五蘊十八界のいかなる法の作用も八識の和合によって生じるものであり、如来蔵が単独で作用した結果ではない。もし自分が如来蔵を証得したと言うなら、五蘊十八界の作用過程において八識を全て見出し、区別でき、どれが如来蔵かを明確に指摘し、具体的に如何に作用するかを説明し、同時に七識の機能作用を真実でないと否定し、五蘊が確かに無我であることを証得しなければならない。そうして初めて真の開悟明心と言える。そうでなければ解悟ですらない。

実際、大多数の人は推論で導き出すことができず、あちこちで聞き回り、他人から暗示を受ける。もし暗示が正しければ良いが、肝心の暗示を与える人も五蘊十八界における八識がどれで、如何に作用し、どんな働きをするかを区別できていない。人参と長葱を混ぜ合わせ、「これが如来蔵の作用だ」と教え、これを知れば証悟したことになると言う。しかしこれが証悟からどれほど離れているか測りようもないのに、断固として悟ったと考える。実際には誤りである。人を誤らせ己を誤る誤り、実に哀れである。このような誤った人々に私は幾人か出会った。彼らは基本的な戒律も守れず、基本的な仏法の知見も備わらず、基本的な禅定も少しもなく、貪瞋痴の煩悩が重々しく、おそらく単なる仏教初心者に属する。

念仏という法相は、八識が共同で和合して生じる作用である。もし人が「念仏するのは如来蔵だ」と推測し、この推測結果をもって如来蔵を悟ったとし、明心に属するとするなら、如来蔵は果たして念仏できるのか?もし如来蔵が念仏できるなら、六識を滅して如来蔵に自ら念仏させ、意根を滅して如来蔵に自ら念仏させることができる。そうならば、無余涅槃においても如来蔵は同様に念仏できる。それでは無余涅槃は寂静無為なのか?やはり涅槃の境界か?明らかに違う。故にこのように「如来蔵が念仏する」という結論を出すのは誤りであり、明心証悟に属さない。多くを語れば解悟ですらなく、解悟の端にも触れない。もし如来蔵が念仏できるなら、臨終時には六識や意根が如何に劣悪であろうと、如何に貪瞋痴があろうと、業障が如何に深重であろうと、如来蔵が念仏できれば良い。阿弥陀仏に感応し、仏に極楽世界へ導かれるはずだ。

同様の理屈で、自ら開悟し如来蔵を証得したと考える人々は皆、ある法の作用が如来蔵の機能であると推測したためである。しかし実際は、いかなる法も如来蔵が単独で作用するものではなく、八識が和合して生じる結果である。その中に真と妄があり、妄法を否定せずしてどうして真の如来蔵を証得できようか?真妄の八識を区別できず、どれが妄でどんな作用をし、どれが真で具体的にどんな作用をするか分からずして、どうして真如を証し得よう?真妄が共同で作用する法を全て如来蔵の機能作用だと見なす。これで開悟し如来蔵を証得したと言えるのか?

もしこれで如来蔵を証得したとするなら、如来蔵が運行する法則に従い、如来蔵は一切法の中で作用し、全ての法に参与する。具体的な一法を指し示すだけで「この法こそ如来蔵だ」と言えるなら、大多数の人が如来蔵を証得し明心開悟できるのではないか?全世界で真妄を区別できない人々が、如来蔵の体性を少し知れば皆開悟できるのか?戒律を守らず禅定を修めず、深い般若の智慧がなくても開悟できるのか?三十七道品を修めず、菩薩の六波羅蜜を修めず、我見を断たずに、速やかに明心開悟できるのか?

仏教の水はどれほど深く濁っているか。どれほどの求道者を沈めたか。いったい誰が知り得よう?どう対処すべきか、誰が知り得よう?

——生如法師の開示
前の記事前の記事

真妄を分かたぬ悟りは推測や憶測にすぎません

次の記事 次の記事

唯識論は無明の現れである

ページのトップへ戻る