意根は六識を統括し、色声香味触法の上で共同して作用する。これは八識の和合作用と言え、真の心も妄の心も共に存在しており、どちらか一方が欠けても、いかなる法も生じ運行することはない。したがって、ある者が「ある法について悟った」と言う場合でも、その法の作用の中には真識も妄識も存在している。では、悟ったのは真心なのか妄心なのか、あるいは真妄和合体なのか?この極めて重要な点がはっきりしないならば、悟ったと言おうと言うまいと、全く違いがないことになる。
ある者は言うかもしれない、「私は如来蔵がこの法に存在していることを知っている、それこそが悟りだ」と。しかしこの法には七識もまた存在しており、如来蔵だけが存在して七識がなければ、いかなる法も存在し得ず、どうして運行し続けられようか。七識の機能作用を無理やり如来蔵に帰属させるなら、悟ったと称するものは結局八識の和合体に過ぎず、それを何が悟りだというのか?
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