衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年01月11日    木曜日     第1 回の開示 合計4097回の開示

どのようにして真に第八識を証得することができるのでしょうか

『維摩経』に曰く、「法は見聞覚知すべきにあらず。若し見聞覚知を行ぜば、是れ則ち見聞覚知なり、法を求むるに非ず」と。この文は何を意味するか。原文の意は、第八識という法は見聞覚知によって見出し体得できるものではないということである。もし見聞覚知の方法を用いてこれを知ろうとするならば、その場合に得られるものは単なる自身の見聞覚知に過ぎず、第八識そのものには到達できない。見聞覚知の手段で第八識を理解しようとするのは、第八識を証得する方法ではなく、悟りを開くことは不可能である。

原文における「法」とは衆生の本体たる第八識を指す。この法は他の一切の法と根本的に異なり、全ての法を決定する。無始以来、衆生はこれを見失い続け、妄法や枝葉を追い求めて本源を尋ねることを知らなかった。本源の存在を知って初めて、本源を探求し本源に回帰し、真実の姿に戻ることを理解するのである。では如何にして本源に遡ることができるか。正しい方法を知らぬ者は見聞覚知の機能を用いて探求しようとするが、大多数の者がこれに該当し、結局第八識の影さえ見出すことができず、仮に影を見たとしても何の役にも立たず、本源に還ることは叶わない。

見聞覚知とは何か。これは六識の機能作用であり、目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、身体で触れ、意識で知るという六識が六塵の境界を弁別する方法である。この六塵を弁別する方法で第八識を探求し弁別しようとするのは適切ではない。第八識は六塵とは明らかに巨大な差異を有しており、第八識を観る方法は六塵を観る方法と同じであってはならない。故に『維摩経』は「若し見聞覚知を行ぜば、是れ則ち見聞覚知なり、法を求むるに非ず」と説くのである。この言葉は深く味わうべき極めて重要な教えである。手段を誤れば目的を達することはできない。

経文の趣旨は明らかに、第八識を観ることは六識の見聞覚知の機能作用ではないと示している。では何の作用か。誰が第八識を観るのか。ここには意識の機能作用が明確に否定されており、意識のような見方を用いない。意識にはどのような機能があるか。推理、思考、分析、想像、整理、帰納、総括、比較などである。つまりこれらの機能作用で第八識本体を観ることは根本的に不可能であり、仮に観えたと思ってもそれは影や代用品に過ぎない。もし意識心で第八識を見出したとして、自ら明心した・悟った・証道したと考えるなら、それは甚大な誤解であり、維摩大士はこれを許さない。大士が認めざることを自ら固執するなら、その結果は自己責任である。

結局のところ、祖師方の証悟の方法こそ真実不虚であり、自他を欺かず、仏教を辱めず、良心に恥じない。繰り返すが、意根が主人として悟りを開かない限り、従属道具たる意識の所業に何の意味があろうか。主人が正式に認めぬ限り、全ての発言は無効である。故に如何なる法を証得するにせよ、世俗法を含めて、必ず主人である意根が自ら証し、直に見て初めて親証と称され、真の機能を享受し、一切の虚妄法を転換し、徹底的に究竟し、真実不虚となるのである。

——生如法師の開示
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