如来蔵は形も相もない心の法であり、色法ではない。したがって色法の上に如来蔵を見いだすことはできず、目で如来蔵を見ることは永遠にできない。実際のところ、私たちは如来蔵を見ることも、感じることも、嗅ぐことも、聞くことも、思い描くこともできず、ただ禅の修行によってのみ如来蔵の機能作用を証得することができる。如来蔵を証得しようとするならば、独頭意識と意根を用いて参究しなければならず、そうして初めて如来蔵のあの形も相もない運行の相貌を発見できるのである。
如来蔵の運作を発見するには、具体的であればあるほど良く、具体的であればあるほど智慧は深く細やかになる。如来蔵の最も具体的で最も明らかな運作とは、六識の受想行識を生み出す機能作用である。如来蔵が色身において四大種子を出力する運作は、おそらく仏以外には誰も観察することはできないだろう。無情物においては、数多くの如来蔵が四大種子を出力する運作は、なおさら観察することはできず、ではいかにして自らの如来蔵、あるいは単独の衆生の如来蔵を証得するのか。如来蔵には見分があり、一切の法を見ることができる。もし一切の法を見ることができなければ、それは一切の法を変現し、執持し、改変することはできない。私たちはただ、その見分が第七識とどのような違いがあるのか、第六識とどのような違いがあるのか、五識とどのような違いがあるのかを観行すればよい。ここから観行思惟を始めてこそ、出路があり、自らが求める答えを見つけることができるのである。
如来蔵が根身器界を了別できる以上、これらはすべて色塵に属し、声香味触法も含まれ、十八界法をすべて了別する。では、それはいかなる内容を了別し、いかに了別するのか。これが唯識種智を証悟する根本的な着手点である。一切の法は如来蔵によって変現されたものであり、それは変現する前に必ず見て了別しなければならず、盲目的に何らかの法を変現することはありえない。ただ、その見る方式と内容が何であり、いかに運行するかが、唯識種智を獲得する鍵と要点なのである。
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