真の解脱の智慧を得ようとするならば、一切法における如来蔵と意根の具体的な役割分担を探り求めてはなりません。もし推論や憶測によって真の心と妄心の分業を明らかにし、それぞれの働きを区別しようとするならば、それは直接的にどれが如来蔵でどれが意根かを指し示すことに等しく、その結果はどうなるでしょうか。情思意解(感情や思考による解釈)に陥り、実際の修行を妨げ、悟りを証することができず、生死の大事を解決できなくなります。このように直接悟れば非常に便利で労力を要せず、何を学び、修め、参究する必要もないと考えるのでしょうか。しかし物事は得をしたように思えるところこそ実は損をしているもので、修行に近道はありません。誠実に着実に実践してこそ、はじめて成就を得られるのです。
修めた者が得るのであり、他人からの具体的で細やかな助けを容易に得ようと期待すべきではありません。誰が為すべき事はその者が為すべきであり、互いに代替することはできません。得る助けが多ければ多いほど、自身はより省力化されますが、獲得する智慧は浅くなり、功徳や利益も少なくなります。もし仏が衆生に代わって悟りを開き成仏させることができるなら、仏は衆生から仏地に至る一切の関所の密意を告げ、仏地の光景を説き示すだけで十分でしょう。衆生が充分に理解し知れば、そのまま成仏するはずです。これほど良いことはなく、仏も安心し、衆生も労せず、皆喜び合えるでしょう。しかしこれは果たして実現可能でしょうか。
自らの七識が為すべき事を如来蔵は代替できず、仏菩薩も代替できません。如来蔵が為すべき事を七識が代わることもできません。そうでなければ如来蔵のみ存在すれば全てが解決し、七識は好き勝手に振る舞い、一日中眠っていても滅亡しても構わないことになります。実際はそうではなく、七識と如来蔵の間、衆生と仏の間にはそれぞれの役割分担があり、各自が責任を負い、各自の問題を解決しているのです。
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