衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年01月05日    金曜日     第1 回の開示 合計4092回の開示

如何に真を見て妄を去り無明を破るか

衆生の悩み苦しみの根源は、真実でない相を真実の相と見做してしまうことにあり、そのため執着を捨てきれず、必然的に苦受が生じます。相を執着し得ないと感じる時、心はさらに苦悩を深めます。故に苦悩を解決する根本は真実相を見極め、虚妄の仮相を打破し、以後妄執を起こさず、こうして解脱し苦受を離れることにあります。正知見を具えた見方で相を見る時、誤った見解や邪見が生じず、虚妄の相に執着することもなくなり、従って苦悩が生じず、相に於いて相を離れ解脱するのです。

如何にして真実相を見、誤謬の相を見誤らなくなるか。そのためには相の本質と根本を認識し、知見を世俗的法相に落とさず、法相の世俗的相貌を打破すれば、表層から深層へと法相の根本と本質を見通すことができ、こうして誤謬の見解は消滅します。真実を正しく見極めて初めて、法相が根本的に執取すべからざるものであることを悟り、相に於いて相を離れ、執着心が消滅して解脱自在を得、煩悩なき境地に至るのです。

如何にして法相の世俗的相貌を打破するか。まず世俗的法相の内容を知る必要があります。世俗的に定義される様々な色・声・香・味・触、法相に内在する多様な形状・本質・趣・世俗的機能。衆生は法相の諸機能と趣を実体あるものと錯覚するからこそ貪着を捨てられず、得るも得ざるも苦悩となり、楽も憂いも憤りも全て苦悩となり、一切の覚受が苦悩となって心を攪乱し、寂静清涼を得られない、これが苦諦です。

これらの世俗的法相は真に存在するのか。夢中では全てが真実と感じられますが、覚醒すれば虚妄であるとわかります。仏法を実証して覚った後に初めて、一切の相が真実でなく無常幻化のものであると悟るのです。世俗的法相が無常であるならば、それは空であり得難く、得ようとしても得られない。空で得難きが故に苦であり、これが苦相です。無常・苦・空なる法相を我と見做すのは誤謬の見解であり、この非理なる知見を滅し正見を得て初めて、法相に執取せず、心解脱を得て自在清涼となるのです。

如何にして真実相を見、知見を世俗的法相に落とさないか。一切の世俗的法相は本心如来蔵より生じ変化創造され、如来蔵はこれらの法相を縁とし了別します。しかし如来蔵は法相の世俗相を見ず、ただ種子の組み合わせ相を見、種子の配列状態を了知し、業種に応じて種子の比率構造を調整し続け、法相を業種・業縁あるいは意根の思心所に随って変化させます。

如来蔵が種子を見て世俗相を見分けなければ、色声香味触法を弁別せず、世俗法の分別を起こさず、心は清浄で煩悩なく、生死業を造らず輪廻の苦もありません。分段生死苦と変易生死苦を脱するには、如来蔵の如く心中の世俗法相を泯滅させ、法の真諦と本質を見極め、心を清浄にし仏心に近づき、最終的に仏陀と等しい智慧を得て無住処涅槃に安住し、常寂光土にて寂滅無為となるべきです。

一切の世俗的法相が真実存在しないなら、何故衆生は見えるのか。これは衆生の無明によるもので、真実相に虚妄見を起こし、虚妄行をなし虚妄業を造り、虚妄果を得て虚妄の輪廻苦を受けるのです。例えば、松明が高速で回転する時、衆生は松明本体を見ず実在しない火の輪を見てこれを実体視し執着するが如く、衆生の世俗法相認知も無明による錯覚です。本来存在しない相を実体視し、真実の法を見失う故に生死業を造り輪廻苦が続くのです。

例えば夏の砂漠で陽炎が揺らめく時、喉の渇いた鹿は砂上に河川を見て奔走しますが、近付けば何もありません。この無明妄見により衆生は虚妄相を執取し生死惑業苦を招く、実に無益なことです。故に無明を打破し実相を見ることは修行の要諦であり最終目標です。実相を見れば無明は消滅し、虚妄相は次第に滅し、生死業を造らず惑業が尽き、自性サハー世界——一真法界に回帰し寂静涅槃を得るのです。


——生如法師の開示
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