多くの人々は悟りを証得する方法、そして誰が悟りを必要とするかを理解していません。ではなぜ私たちが仏法を学ぶ上で悟りを必要とするのでしょうか。無始劫以来、私たちは迷妄に陥り、虚妄を真実と見做し、生死輪廻の苦しみを妄りに受け、解脱と自在を得られていないからです。そのため無明を打破し、心の中の虚妄の法を破り、真実の理を悟る必要があります。ただし、ここでいう「私たち」とは誰を指すのかを明確にしなければなりません。それは意識と末那識(意根)という二つの心を指します。この二つの心には極めて多くの無明が存在し、法界の実相真理を知らないため、修行して真理を悟る必要があるのです。真理を悟った後、初めて五蘊世間の一切の法が虚妄であることを証得し、一切の無明を断尽し、一切の生死の苦しみを滅除し、大解脱を得ることができます。法界の実相である如来蔵を証得してこそ、三大阿僧祇劫の修行を通じて無明を断尽し、涅槃寂静に至り、一切の生死の苦しみから解脱できるため、悟りを開く必要があるのは第六識と第七識の心なのです。
いかにして如来蔵を証得するのでしょうか。如来蔵の本体は私たちには決して見ることができません。それは空であり、何らの相貌もないため、その本体を見ることはできず、ただその功能作用を通じて証得するほかありません。五陰身の運作において現量観察によって如来蔵の運作行相を観る、これが如来蔵の証悟です。その時初めて、如来蔵が五陰身において如何に運作しているかを明らかにできます。如来蔵の本体は空寂ですが、その作用は決して空寂ではなく、功能作用には行相があり、観照することが可能です。これを観照した時がまさに証悟の時です。
かつて私は風を例えに挙げました。空寂の心は風のように不可視ですが、風の存在を知ることは可能です。風もまた空であり、私たちは風を見ることも嗅ぐことも触れることもできません。しかしなぜ風が来たとわかるのでしょうか。風が来るとき必ず様々な作用が現れるからです。これらの作用は物体や虚空に現れ、風が物体や虚空に作用し、互いに触れ合い衝突する時、様々な現象が生じます。これらの現象を観察する時、私たちは風を証得するのです。微風であれ、強風であれ、旋風であれ、竜巻であれ、物体に現れる現象から、どのような風かを判定できます。
如来蔵の本体も風と同様に形相を持ちませんが、五陰身における如来蔵の作用を通じて初めてその存在を発見できます。では風を見出すのは誰でしょうか。それは第六識と第七識の心、さらに五識を含みます。大風が発生する時、第六第七識は共に風害を避け防ぐ方法を考えます。如来蔵を証得する時も同様に、第六第七識が共同で如来蔵の作用を観察し、五陰身の運行に現れる行相を通じて証得するのです。如来蔵にはどのような作用があるのでしょうか。一切の万法はこれによって生成され維持され、一切の万法にはその執持作用があります。如来蔵が如何に運作し、如何に作用するかを参究すれば、六祖が説いた五つの「何期自性」を明らかにできるのです。
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