衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2024年01月02日    火曜日     第1開示 合計4090開示

観音耳根円通の法門で説かれる空寂心を如何にして証得するか

楞厳経における観世音菩薩が修めた観音耳根円通法門について、観世音菩薩は禅定の中で空性を思惟し、絶えず虚妄の法を破砕した。この修行様式は極めて深い禅定と強力な般若智慧を必要とし、どちらが欠けても観音耳根円通法門を成就することはできない。この修行方法は極めて深い禅定の中で、一切の生滅不実の虚妄法を絶えず排除し続け、ついに排除しきれない実在の、空じきれないいわゆる一つのものだけが残る。それが真実心如来蔵である。

この修行方法は非常に優れているが、大部分の人々、いや全ての人々がこの境地に至ることはできない。第一に、これほど深い禅定を修めることができないため;第二に、それほど深い般若空性の智慧を持たず、甚深なる禅定の中でこの空性心を証得することができないため;第三に、発心が十分に広大でなく、善根福德がこのような修行を支えるに足りないためである。したがって、証得できない場合、般若空性に対する誤解は非常に大きくなる。私たちのこの娑婆世界の衆生の善根と根基では成功することはできず、最初の空すら証得することさえ非常に難しい。般若智慧は相似の理解は可能だが、禅定はハードな指標であり、最も実践的な修行の成果であって、理解だけでは到底成し遂げられない。

ゆえに禅定の中で一切の虚妄法を排除することは、一般の人には不可能である。これは単に人我を空じて初果から四果の聖者となるだけでなく、法我を空じて地上の菩薩となり、唯識の種智を具え、虚法・仮法を全て排除し、空じた後、ついにただ一つ空じきれない空寂の真実心だけが残る必要がある。そうして初めて修行は完成する。現代ではこの境地に至る者はおらず、これほどの大根基の者は娑婆世界には来ない。相応しくないからであり、菩薩の資源を浪費するからである。娑婆世界の衆生はこれほど極めて高い智慧を持つ大菩薩を必要としない。

虚偽の法を全て排除した後、ついにただ一つの空寂心だけが残り、甚深なる空性が証得される。では、誰がこの空寂心を証得するのか? 誰がその空寂の真実心を認識するのか? やはり「誰か」が必要であり、この「誰か」なしでは成り立たない。そしてこの「誰か」もまた空であり、排除されるべき存在である。しかし、この破られるべき空の「誰か」を利用して、私たちが本来持つ空寂の心体である如来蔵を発見しなければならない。このような修行は、虚妄法を全て破砕するのであって、滅ぼすのではない。それを真実と認めなければそれでよく、そして虚妄非真の意識・意根を用いて、破壊できない真実心を証得するのである。虚妄の意識・意根がなければ明心証悟はできない。

この空寂の心とは何を指すのか? それはその本体が空寂であり、形も相もなく、眼では見えず、耳では聞こえず、鼻では嗅げず、舌では味わえず、身体では触れられず、意識では感じられず、思い至ることもできないものを指す。では、どうやってこれを実証するのか? 般若経典を修学し、真実心の体性と、真実心が作用する特徴を理解することを通じてであり、真実心の作用とは五陰身の中で運行することである。理解した後は、菩薩の六波羅蜜を完成させ、さらに禅定と参究の修行を行い、ひたすらに諦めずに参究し続けて、初めて空寂心を証得できる。

耳根円通法門は、純粋な修定の法門ではなく、定慧を同時に修める法門である。四禅八定の基礎の上に、甚深なる大乗如来蔵の法を修学し、禅定の中で生滅虚妄法を一路捨て去り、如来蔵を除く全ての心の行いを捨て去る。能空の心も、所空の法も、また様々な空の概念も含まれる。智慧がなければ、到底この法門を修めることはできない。この門を修めると観世音菩薩の三十二応身に至ることができ、禅定であれ智慧三昧であれ、諸仏に比肩するものであり、もちろん極めて円通である。極致に近い法ほど、究極の法ほど、殊勝な法ほど、修めるのは難しい。

修行者が人無我の法を修め、我見を断じて法眼浄を得、五陰身を空じる。この三昧は最も簡単で容易な法であるが、命終わる前に証得できると保証できる者が果たして何人いるか? もし私が弘法をせず、専ら耳根円通を修めても、私も修められないだろう。非常に多くの人々が四禅定を修められても、必ずしも耳根円通を修められるわけではない。初地菩薩の唯識種智の証量があっても、必ずしも耳根円通を修められるわけではない。観世音菩薩のように修行し、ついに等覚菩薩となることは、娑婆世界ではあり得ない。もし『観無量寿経』の第一観すら成就できないなら、何も語ることはない。何を語ろうとそれは無駄話に過ぎず、何の役に立つというのか?

『観無量寿経』の第一観を、皆さんは何年か修習してきたのではないか? 誰一人として自分の修行成果を報告する者はおらず、第三観まで観じて初めて命終時に極楽世界へ往生することが保証される。第一観さえこれほど困難なのに、第三観などなおさらのこと、ましてや観世音菩薩の耳根円通法門など論じられようか? 欲界の未到地定の修行さえあれほど困難で、初禅はさらに難しい。四禅定などなおさらのこと、ましてや耳根円通の修習に必要な禅定など論じられようか? 初果の証得さえ遙かに望み薄で、明心はさらに難しい。地上菩薩の唯識種智などなおさらのこと、ましてや観世音菩薩の耳根円通法門の修習など論じられようか? 世界中のほぼ半分の人々が理論を大いに語るが、真の修行となると、ある程度まで修めた者は世の中にほとんど見当たらない。これが娑婆世界末法時代の現状である。


——生如法師の開示
前へ前へ

理解は証得に替えることはできません

次へ 次へ

誰が証悟を必要とし、どのように悟るのでしょうか

ページトップへ戻る