『楞厳経』において観世音菩薩が修めた観音耳根円通の法門は、観世音菩薩が禅定の中で空性を観じ、不断に虚妄の法を破砕する修行法です。この修行様式は極めて深い禅定と強力な般若智慧を必要とし、いずれかが欠けても観音耳根円通法門を成就することはできません。この修行法は深甚なる禅定の中で、一切の生滅不実の虚妄法を絶え間なく排除し続け、ついに排除し得ない真実の存在、すなわち真如如来蔵のみが残る境地に至るものです。
この修行法は極めて優れたものですが、大多数の人々、いや全ての者がこの境地に達することはできません。第一にこれほど深い禅定を修得できないこと、第二に深甚な般若空性の智慧が不足し、深い禅定の中でこの空性心を証得できないこと、第三に発心が広大でなく、善根福徳がこのような修行を支えるに足りないことによるものです。よって証得できない状況下では、般若空性に対する誤解が甚だしくなります。この娑婆世界の衆生の善根と根基では成功できず、最初の空すら証得し難く、般若智慧は似たような理解は可能でも、禅定は厳然たる指標であり、理解のみで達成できるものではありません。
禅定の中で一切の虚妄法を排除することは凡夫には不可能です。人我を空じて初果から四果の聖者となり、更に法我を空じて地上の菩薩となり、唯識種智を具えて初めて、虚法仮法を全て排除し、空じ尽くした後に残る唯一の空寂たる真如を証得します。この境地に至る修行者は現代には存在せず、このような大根基の者は娑婆世界に来る因縁がなく、この世界の衆生にはこのような至高の智慧を持つ大菩薩は必要とされないのです。
虚妄法を排除し尽くした後に残る空寂心を証得する主体とは何か。この主体もまた空じられるべき存在でありながら、同時に本有の空寂心体如来蔵を発見する手段となります。この修行は虚妄法を滅ぼすのではなく、真実でないと看破しつつ、虚妄非真の意識意根を用いて破壊不能な真如を証得するものです。
空寂心とは、その本体が無形無相で六根では感知できない存在です。般若経典の修学によりその体性と五陰身における作用を理解し、菩薩六波羅蜜を完成させ、禅定と参究の修行を継続することで初めて証得可能となります。
耳根円通法門は純粋な禅定修行ではなく、禅定と智慧を並行して修める法門です。四禅八定の基盤の上に大乗如来蔵法を修学し、禅定の中で生滅虚妄法を捨て続け、如来蔵以外の一切の心行を捨て去ります。この法門を修めれば観世音菩薩の三十二応身を成就し、諸仏に比肩する三昧を得られますが、究極に近い法であるほど修得は困難です。
無我の法を修め我見を断じ五陰身を空ずる三昧は最も容易な法とされますが、命終までに証得できる者がどれほどいるでしょうか。仮に私が弘法を止めて専修したとしても、耳根円通を成就することはできません。四禅定を修得した者でも耳根円通は困難であり、初地菩薩の唯識種智を有する者でさえ容易ではありません。観世音菩薩のような等覚菩薩は娑婆世界には現れず、『観無量寿経』の第一観さえ成就できないなら、それ以上の議論は無意味です。
『観無量寿経』の第一観を数年修めた者でも、第三観を成就しなければ極楽往生は保証されません。欲界の未到地定さえ困難な状況で、四禅定はおろか耳根円通に必要な禅定の話など及びもつきません。初果の証得さえ不確かな状況で、地上菩薩の唯識種智は夢物語です。世の大半は理論を語る者ばかりで、真に修行を成就する者は稀です。これが娑婆世界末法の現実です。
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