衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年12月29日    金曜日     第1 回の開示 合計4088回の開示

どのようにして如来蔵を実証できるのか

如来蔵を実証するのは、人を探すようなものです。もしある人を探そうとする時、思索を重ねて最終的にその人が特定の地域の具体的な場所にいると確信しても、実際にその人を目撃していなければ、本当に会ったと言えるでしょうか。実際に会わず、直接対面しなければ、会ったことにはなりません。たとえその場所にいると強く確信していても、実際に会わなければ、それは会ったことには属しません。なぜなら、その人の容貌や現在の行動様式、心境、修養や品行について何の認識も理解もなく、その場所に本当に探している人が存在するかどうかも分からないからです。目で見なければ真実とは言えず、心で推測し想像するのは真実の出会いとは言えません。

どれほど心から確信していても、その人がその場所の部屋に実際にいたとしても、直接目撃しなければ会ったことにはなりません。実際にその人を見つけた時、彼が何をどのようにしているかを目の当たりにすることを、真実の目撃と言います。部屋にいると信じていても、具体的な行動内容や方法を知らなければ、何の智慧も生まれません。その人が部屋で何をしているかを推測し、たとえ正しく推測できたとしても、それは智慧による証しには属しません。

例えば上司から「某甲を探し出し、彼の様子を見てこい」と命じられた場合、某甲が遠方にいることを大まかに把握し、探しに行くのが面倒だと感じても任務を遂行しなければなりません。ようやく某甲が某所の11階にいると聞き、おそらく寝ているだろうと推測します。上司に「某甲は11階におり、普段通りのことをしているので問題ないでしょう」と報告した場合、これは某甲を見つけたと言えるでしょうか。これは推測であり、たとえ事実と一致しても真実の目撃ではありません。直接会って観察し続けることで初めて、彼を識別する智慧が生まれ、学ぶことができます。想像や推測からは決してこのような智慧は生まれません。

多くの人々が長年悟りを求めながら進歩しないのはなぜでしょうか。それは自ら証していないからです。例えば空腹時に、目の前の食事を食べずに想像だけで満足できるでしょうか。当然無理です。同様に、八地菩薩の修行境を推測しても、たとえ正確でも自ら証得しなければ凡夫のままです。ゴールドバッハ予想が仏法で多用されるのは、実証の難しさから来る方便です。

真に如来蔵を証得した後、退転するでしょうか。例えば「某甲は部屋にいる」と伝え、あなたが強く確信しても、実際に見なければ後で疑いが生じます。しかし自ら苦労して証得し目撃したものは疑いも退転も生じません。他人の言葉は事実ではなく、自らリンゴを見て味わわなければ、その真実は分かりません。

もし万人集会で如来蔵の働きを詳細に説き、多くの人々が「悟った」と主張しても、それは私の話を聞いて推測したに過ぎません。彼らは後にどうなるでしょうか。真の明心見性でなければ、推測分析に基づくため、信じられなくなり退転します。苦労せず得たものは霧の中の花のようで、真の転依も功徳の受用も生まれません。

例えば私がリンゴを食べる様子を目の当たりにすれば、削り方や食べ方を学べます。皮を鼠に与える慈悲心も観察でき、貪りを起こさない心も学べます。これが直接会う利益です。如来蔵を自ら証得すれば、その働きを現前に観察でき、心性が如来蔵に近づきます。推測だけではこのような功徳は得られません。

——生如法師の開示
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理解は証得に替えることはできません

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