いわゆる観行とは、証得する前には思惟・参究と呼ばれ、深細な思惟・探究・推究・尋伺であり、浅い思惟活動ではなく、意根に落とさなければならない。証得後は観察と呼ばれ、眼前に如来蔵が五陰身における種々の運作を観察し、万法の奥義を観察するが、その中には依然として更に深細な思惟と参究活動が必要であり、これも意根に落とさなければならない。証得前後の観行は、いずれも未到地定あるいは初禅定の中で行わなければならず、禅定がなければ純粋に意識による学習・理解・推理活動となり、思惟は浅薄である。たとえ禅定があっても浅い場合、思惟力が不足し、意識のみに留まり証悟できない。四聖諦の観行、如来蔵証悟の観行、如幻観の観行、陽炎観の観行、夢幻観の観行、鏡像観の観行——これらの観行智慧は層次的に進展し、観行智慧は次第に深細となる。
いわゆる悟りとは、意識と意根が自ら如来蔵を証得しなければならず、如来蔵の理を理解しただけでは悟りとは言えない。それらの理は様々な経路で知り得るが、如来蔵を悟るには必ず参禅を通じて自ら証得しなければならない。悟りは学び得た知識や道理ではなく、意根が有効な参究を通じて自ら証得するものである。
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