八つの識心は形も相もなく、物質的な色法ではなく、物質的な色法との間には物理的な属性を持つ接触は存在しない。したがって、識心は物質的な色法である色身の内側、外側、中間のいずれにも存在しない。もし識心が色身の内側にあるならば、色身という物質的な色法を分解し、一片ずつ切り開けば、識心を見ることができるはずである。しかし、たとえ色身を切り刻んでも、いかなる識心も現れず、後脳の勝義根を分解しても、八つの識を見つけることはできない。ゆえに識心は色身の内側には存在しない。
もし識心が色身の外側にあるならば、色身の外側は虚空であり、識心は虚空の中に存在することはできない。なぜなら、識心と虚空は異なる属性を持ち、互いの中に存在しえないからである。たとえ識心が虚空の中にあったとしても、それはあなたとは無関係であり、誰のものでもない識心である。すべての人が共用することもできない。もし識心が他人の身体にあればそれは他人のものであり、無情物の上にあるならば、その物を打ち砕いても見つからない。ゆえに識心は色身の外側にも存在しない。
もし識心が色身の中間にあるならば、中間の位置を見つけることはできない。もし色身の表面にあるならば、それは依然として色身の内側に属し、中間ではない。位置が存在する限り、それは色身の内側であり、中間ではない。したがって、識心は色身の内側、外側、中間のいずれにも存在しない。
具体的には『楞厳経(りょうごんきょう)』第一卷を参照されたい。世尊が説かれた六識が色身の内外中間に存在しないという説き方と同様に、第七識と第八識も六識と同じく、色身の内外中間のいずれにも存在しない。色法と非色法は物理的な属性を持つ接触を持つことができず、非色法は色法の内外中間に存在することはできない。
そこで、ある人はこう問うかもしれない:では、八つの識は結局どこにあるのか? どこにも存在しないとは言えないのではないか? 八つの識は当然、それぞれの作用する場所にあるが、目で見ることはできない。なぜなら形も相もないからである。八つの識が具体的にどのような作用を持つかは、自ら努力して思惟し、一定の時期に至れば各識を証得することができ、その時になって初めて各識がどこにあるかを知ることができる。その中で前六識は証得しやすいが、第七識と第八識の二つの識は極めて困難であり、相当の因縁条件を具足しなければ証得できない。
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