衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年12月26日    火曜日     第1開示 合計4085開示

禅定が具足して初めて、証悟が可能となります

いわゆる観行は、証得する前は思惟・参究と呼ばれ、深く細やかな思惟、探究、推究、尋求、伺いであり、浅はかな思惟活動ではない。これらは意根に落とさなければならない。証得した後は観察と呼ばれ、眼前に如来蔵が五蘊身において展開する様々な働きを観察し、万法の奥義を観察する。その中には依然として更に深く細やかな思惟と参究の活動が必要であり、これら全ては意根に落とさなければならない。証得前と証得後の観行は、いずれも未到地定あるいは初禅定の中で行わなければならない。禅定がなければ、それは純粋に意識による学習、理解、推理の活動に過ぎず、思惟は非常に浅い。たとえ禅定があっても、もし禅定が比較的浅ければ、思惟力も不十分で、ただ意識に落ちるだけで証悟することはできない。四聖諦の観行、如来蔵を証悟する観行、如幻観の観行、陽炎観の観行、如梦観の観行、镜像観の観行――これらの観行の智慧は層を重ねて進み、観行の智慧は次第に深く細やかになっていく。

いわゆる悟りとは、必ず意識と意根が自ら如来蔵を証得することでなければならない。如来蔵の理を理解しただけでは悟りとは言えない。それらの理は様々な経路を通じて知ることができるが、如来蔵を悟るには必ず参禅によって自ら証得しなければならない。悟りは、学び得た知識や道理ではなく、意根が効果的な参究を通じて自ら証得するものである。


——生如法師の開示
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