大般涅槃経原文:解脱とは空空ならざるを名づく。空空とは無所有を名づく。無所有とは、即ち外道の尼乾子などの計る解脱なり。而るにこの尼乾は、実に解脱無し。故に空空と名づく。真の解脱は、則ち是の如くに非ず。故に空空ならず。空空ならざる者は真の解脱なり。真の解脱は即ち如来なり。また解脱とは、不空と名づく。
釈:解脱した者を空空ならざると言い、空空の者は無所有と言います。無所有とは外道のニガンタ派(尼乾子)が想定する解脱であり、しかしニガンタ派には実際に解脱はありません。それゆえ空空と言うのです。真に解脱した者はそうではなく、故に空空ならずと言います。空空ならざる者こそ真の解脱者であり、真の解脱者とは即ち如来です。また、解脱者は不空と言います。
大涅槃経におけるこの「空空ならず」とは、真実の心である如来蔵を指します。如来蔵を徹底的・究竟的に証得した者は、最も大いなる解脱者です。なぜそう言えるのかと言うと、如来蔵を究竟的に証得した者は、ただ如来蔵のみが真実の法の相(ありさま)であると知り、これ以外の全ては如来蔵から出生し現れた虚妄不実の法であると理解します。こうして我見・我執、法見・法執がことごとく破られ滅し尽くされ、世間の一切の法の束縛から解脱します。これは究竟的で徹底的な解脱であり、小乗の不究竟な暫定的解脱よりもはるかに勝れ、空よりも勝れ、空空よりも勝れ、外道よりも勝れているのです。
空空を証得した者は、一切の法が無所有であることを証得します。もし無所有であると考え、如来蔵という法界の実相すら存在しないと見なすならば、それは外道の説く解脱であり、実際にはこれは解脱ではありません。真に解脱した者は、このような知見ではありません。それゆえ真の解脱者は空空ならざる者であり、このような者は即ち如来です。如来は一切の法の実相を証得し、不空と言います。
4
+1