衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年12月18日    月曜日     第1開示 合計4079開示

空空の真髄

我空、法空、そして空空、ここの空空とは何を意味するのか。空とは、一つには得られない、得ることができないという意味、二つには現象は存在するが実質は無いという意味、三つには存在しない、無いという意味である。我空と法空は、法界の理体、あるいは道理であり、規則や法則などに類似し、記述され顕現された法である。これらの規則法則や理体もまた空であり、本来から存在する如来蔵のような不生不滅の法ではない。例えば、私が一を表し、我空が二を表すとすると、一が空であるだけでなく、二もまた空である。これを空空という。例えば、法が甲を表し、法空が乙を表すとすると、甲が空であるだけでなく、乙もまた空である。これを空空という。例えば、犬小屋に犬がいなければ、犬は空である。そして犬小屋に犬がいないという事実、この道理もまた空である。これを空空という。

我空だけでなく、我空という道理そのものも空であり、我空という現象も空であり、我空という事柄も空である。私と我空を並べて見ると、我空は私と同じくどちらも空である。犬小屋に犬がいなければ、犬小屋の犬は空である。そして犬小屋に犬がいないという道理も空であり、この現象も空であり、この事柄も空である。空という理体が空であるとは、本来から存在するものではなく、不生不滅のものではない。空という法が存在するとすれば、それでもまだ空ではない。空の法もまた空であることこそが真の空である。だから空空というのである。

空という概念を意根の心に懸けて、数年間参究し、自らが直接に証見することを基準とする。たとえ十年、八年かかろうとも、自らの力で直接に証見しなければならない。それ以上尋ねても無駄である。たとえ二十年参究し、一生をかけても価値がある。例えば、白という色について、私がどう説明し、どう喩えようとも、他人には理解できない。それは私の責任ではない。この他人とは実は盲人を指す。白を理解するには、どうすべきか。自らの目で白を見るべきである。理解だけでは決して解決しない。必ず目を開いて自ら見なければならない。なぜなら、目が見えなければ色を見ることができず、耳で見ることも、鼻で嗅ぐことも、舌で味わうことも、身体で触れることも、意識で考え抜くこともできないからである。ただ目を開いて自ら見るしかない。だから私はよく皆に勧める。未熟で証得されていない、理解から来た法をいつも発表し、それを究竟だと思い込み、自ら正しいとして諫めを聞かず、理解が正しいかどうかに関わらず何の役にも立たない。親しく見ることが真実である。


——生如法師の開示
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声聞・縁覚は第一義空を見ず

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真の解脱者は空空ならず

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