大般涅槃経原文:中道とは仏性と呼ばれる。この意味によって、仏性は常恒であり、変異することなし。無明が覆うが故に、諸々の衆生は見ることができない。声聞縁覚は一切の空を見るが、不空を見ず。すなわち一切の無我を見るが、我を見ず。この意味によって第一義空を得ず。第一義空を得ないが故に、中道を行ぜず。中道がない故に、仏性を見ない。
釈:中道を仏性と名付ける。故に仏性は常恒不変であると説く。無明が心眼を覆う故に、諸々の衆生は仏性を見ることができない。声聞縁覚の修行は現象界に留まり、現象界を超脱できないため、現象界の一切法が空であることのみを見て、現象界を超えた不空の仏性を見ることができない。すなわち声聞縁覚は現象界における一切法の無我のみを見て、現象界を超えた仏性の我を見ず、故に声聞縁覚は第一義空を証得できない。第一義空を証得できない故に、中道を行じない。中道がない故に、中道の仏性を見ない。
仏性の中道性については、楞厳経における仏説の如来蔵の中道性を参照すべきである。如来蔵と仏性はともに法として実在し、本体は空ではなく、性質は空である。衆生は無明によって世俗界の現象法に執着し、現象界の背後にある実法・真法を探究する智慧がなく、如来蔵と仏性を証得できない。
声聞縁覚にも大乗法に対する無明があり、現象界の背後にある実法・真法を探究せず、如来蔵と仏性を実証できない。彼らは現象界の空のみを見て、背後にある真法の不空を見ず、真法の第一義的不空があるが故に現象界の空が存在することを知らない。故に彼らの行いは空に偏り、中道を具えていない。その真法こそが衆生の本体・本来の面目、すなわち衆生の我(真我)であり、この真我から五蘊世間の仮の我が派生するが、仮の我は我ではない。故に声聞縁覚の空は究竟のものではなく、中道的でもなく、偏ったものである。彼らは純粋な空に偏り、空と有を円融させることができない。
5
+1