衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年12月15日    金曜日     第1開示 合計4077開示

心空無病にして及第帰る

六七の識は形も相もなく、見る夢もまた形も相もない。しかし、夢の中でなぜ形ある人や物事が見えるのか?形も相もない夢が、どうして形ある人や物事を宿すことができるのか?形も相もないものと形ある相あるものとは相容れないはずである。相容れないならば、夢の中にどうして形ある人や物事があり得るのか?

同じく、如来蔵は形も相もなく、七大種子は形も相もなく、業種は形も相もない。それなのに、そこから生じる一切の法はなぜ形ある相をなすのか?一切の法は如来蔵の外に出ることはない。形も相もない如来蔵が、どうして形ある相ある一切の法を宿すことができるのか?形も相もない如来蔵が、どうして形ある相ある一切の法と相容れ得るのか?ゆえに言う、一切の法相は、目に落ちて翳となり、耳に落ちて病となり、鼻に落ちて病となり、舌に落ちて病となり、身に落ちて翳病となり、意に落ちて病となる。七識が病となるからこそ法を見るのであり、七識に病がなければ、どこに一切の法があろうか?ゆえに言う、修行とは翳病を取り除くことにあり、相を除き執着を去り、心が空になって初めて病は癒える。心が空になり及第して帰るのである。

いつでも法相に執着しかけたときは、自らを戒めよ。これは翳病の見るものであり、我に翳病があるのだと。我は翳病を消すべきである。このように続けていけば、いずれ翳病を取り除き、正常な状態に回復し、再び相に執着することはなくなる。もともと我々は正常な者ではなかった。もともと正常と思っていたものは正常ではなく、それを仮に正常と名付けるのである。回復後の正常もまた正常ではなく、それを仮に正常と名付ける。正常後の解脱も、即ち解脱ではなく、それを仮に解脱と名付ける。修行の道筋はこのようである。このようでないものは即ち修行ではなく、それを仮に修行、偽りの修行と名付けるのである。

仏法を学び修行することが、何かを得ることだと思ってはならない。むしろ何かを取り除くことなのであり、これまでの認識とは正反対である。法を得ようとし、果を得ようとし、名誉を得ようとし、大千世界を得ようとし、美しい生活を得ようとし、殊勝な正報や依報を得ようとする。何を得ようとも、それは全て妄想である。有るという想いを滅し、一切の想いを空ずべきである。


——生如法師の開示
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