『般若経』における二十種の空は非常に理解し難いため、今ひとつの譬えを用いて理解を助けましょう。例えば、無限に広がり果てしのない容器があるとします。その中に七種の異なる色彩の粒子があり、それぞれの粒子は無量の数を持ち、自由に組み合わせて無数の物体を形成することができます。
例えば五種の粒子を用い、容器内の一つのパズル図案に従って一本の花を組み立てたとします。この花を観察する時、もし私たちの視線つまり注意力が片面に偏り、花の外観のみに執着するならば、花の色彩と形状を知覚し、それによって花の属性と性質を認識しますが、それ以外のことは知らず見えません。このような認識は極めて偏っており、そこから生じる執着は無益で徒労なものです。もし花の外観を捨て去り、微細に花の構成と質を観察するならば、この花が実は五種の粒子の集合体であり、本質的には五種の粒子そのものであることが分かります。花は幻影・仮像に過ぎず、実際には幻影や仮像ですらなく、五種の粒子が混合された集合体に過ぎません。
粒子は容器内に存在し、組み合わさって花となっても容器の外に出ることはありません。花が生じても滅びても、粒子は元のままで数も変わらず、容器も動かず変わることがなく、何らの影響も受けません。偏った見方をすれば、あたかも花の生滅があるかのように見えますが、実際にはそのような事実は存在せず、幻相ですらありません。七種の粒子を用いて五蘊身を組み立てるパズル図案も同様で、実体ある五蘊身の相貌は存在せず、幻化された影像ですらありません。五蘊身の生住異滅という現象は存在せず、生住異滅は跡形もなく、衆生が愚痴に陥り偏執的に計量するのは無益な徒労です。五蘊身が生じようと住しようと異なろうと滅しようと、容器の外に出ることはなく、容器は動かず、何らの影響も受けません。
容器は如来蔵に譬えられ、七種の粒子は如来蔵中の七大種子に譬えられます。パズル図案は如来蔵に蓄えられた業種に譬えられ、パズルが使い尽くされれば消滅して無効となります。花と五蘊身は如来蔵から生じる一切法に譬えられます。この譬えを手掛かりに般若経の二十種の空を思惟するならば、一つの入り口を得るでしょう。世俗の法相に堕ちるいかなる思惟も邪解・邪見であり、捨て去るべきです。世俗の法相に堕ちずに観察してこそ、正見と実相の智慧が生じます。最終的に一切を空じ、空すらも空じて余すところなく清浄になれば、完全に究竟し、寂静涅槃に入ります。
このような比量思惟をもって大乗の一切経典を読むならば、仏の説かれた法の究竟義・真実義を理解しやすく、修行の契機を得るでしょう。最終的に法を理解し明白にした後、その活用には実証が必要です。実証には実修が求められ、仏の求められる三十七道品・菩薩の六波羅蜜・五戒十善などの法を逐一実践せねばなりません。順序を飛び越えたり省略してはならず、そうでなければ実証できず、理解した法を活用することもできず、生死は依然として生死のまま、苦は依然として苦のままです。
いかなる法を取り上げて対照思惟しても、速やかに契合します。仏法は一乗法であり、二も他もありません。二乗の修行者が修証する段階は世俗の法相に執着する段階で、法相の有無を論じますが、いずれも究竟ではありません。法相は有でも無でもなく、有無は戯論です。故に二乗人は世俗の五蘊を恐れ、生死を怖れて無余涅槃に逃れようとしますが、これは完全に相への執着です。四諦・十二因縁の法も空で実体なく、仮相上の計較に過ぎず、杯中の蛇影に執着するようなものです。五蘊無我の理も空であり、無余涅槃すらも空です。これらは世間の有を遣わすための方便施設であり、世間の無をも空じるべきです。有無はいずれも真実ではありません。人無我・法無我也方便施設であり、我の空も無我の空も、元来一真法界に他なりません。これ以外に法はなく、一切法の一切の性相は空で不可得であり、空と不可得すらも空です。一法も情に当たらぬ時、仏道は最終的に円満成就します。
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