衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年12月14日    木曜日     第1 回の開示 合計4076回の開示

二十種の空における比量の思惟

『般若経』における二十種の空は非常に理解し難いため、今ひとつの譬えをもって理解の便を図りましょう。譬えば、無限に広大で辺際を見極められない容器があり、その中に七種の異なる色彩の粒子が存在します。各粒子は無量の数を持ち、自由に組み合わさって無数の物体を形成します。

例えば五種の粒子を用い、容器内の一つの組み合わせ図案に従って一本の生花を組み上げた場合、この花を観察する際に、もし我々の視点あるいは注意力が片面のみに偏り、花の外観形象にのみ執着するならば、色彩と相貌を知覚して花の属性を認識しますが、その他の要素は知見できず、このような認識は甚だ偏頗なものであり、そこから生じる執着は無益で徒労なものです。もし花の外相を捨て去り、微細にその構成と質を観察すれば、この花が実は五種の粒子の集合体であり、本質的に五種の粒子そのものであることを悟るでしょう。花は幻影仮像に属し、実際には幻影すら存在せず、ただ五種の粒子が混合した集合体に過ぎません。

粒子は容器内に存在し、組み合わさって花を形成しても容器の外に出ることはありません。花が生滅しようとも粒子は原形を保ち、数量も変化せず、容器も動揺せず影響を受けません。偏った見方をすれば花の生滅があるかの如く見えますが、実はそのような事実は存在せず、幻相とも言えません。同様に七種の粒子を用いて五蘊身を組み上げる場合も、実質的な五蘊身の相貌は存在せず、幻化の影像すらなく、生住異滅の現象は痕跡もなく、衆生の愚痴と偏執による計較は無益徒労です。五蘊身の生住異滅も容器の外に出ず、容器は動かず何らの影響も受けません。

容器を如来蔵に譬え、七種の粒子を如来蔵中の七大種子に譬え、組み合わせ図案を如来蔵に蓄えられた業種に譬えます。図案が使用され尽くせば消滅し、花と五蘊身は如来蔵より出生する一切法を表します。この譬えに照らして般若経の二十種の空を思惟する時、着手点を得るべきです。世俗の法相に堕する如何なる思惟も邪解邪見であり、棄却すべきです。世俗法相に堕さず観察して初めて正見と実相の智慧が生じます。最終的に一切を空じ、空すらも空じて完全に清浄無垢となれば、究竟し寂静涅槃に入ります。

この比量思惟をもって大乗経典を読めば、仏の説かれた法の究竟義・真実義を理解しやすく、修行の契機を得られます。最終的に法理を理解した後は実証が必要であり、実修を要します。仏の定められた三十七道品・菩薩の六波羅蜜・五戒十善等は全て実践修行すべきで、順序を飛ばしたり省略してはなりません。然らずんば実証できず、理解した法も活用されず、生死は依然として続き、苦はそのまま残ります。

如何なる法も対照的に思惟すれば迅速に契合します。仏法は一乗法であり、二も他もありません。二乗の修証は世俗法相の段階に留まり、法相の有無を論じますが究竟せず、法相は有無を超え、有無は戯論です。故に二乗は世俗五蘊を恐れ生死を忌避し無余涅槃に入ろうとしますが、これも法相への執着です。四諦・十二因縁法も空不実であり、仮相上の計較に過ぎず、杯中の蛇影に執する如し。五蘊無我の理も空であり、無余涅槃すら空です。これらは世間の有を遣わすための方便施設であり、世間の無をも空ずべきです。人無我・法無我も方便施設であり、我の空も無我の空も、元来一真法界に帰します。この他に法はなく、一切法の一切性相は空不可得であり、空と不可得もまた空じられます。一法も情に当たらぬ時、仏道は究竟円満成就します。

——生如法師の開示
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