如来蔵は心の本体であり、主体であり、王である。五遍行心所法は付属するものであり、所であり、如来蔵に依附して存在し、従者である。王が到れば従者も必ず到る。如来蔵は能依であり、心所法は所依である。主従の関係は明らかに分かれている。例えば欲界の衆生において、五蘊あるいは七識が主であり、あるいは意根が主であり、身体は従である。五蘊の我がどこかに現れれば、身体は必ずそれに従って至る。五遍行心所法と如来蔵の関係は、仏性と如来蔵の関係よりも一層親密で、より分かち難い。仏性には分かれる時があるが、五遍行心所法に分かれる時はない。如来蔵が存在すれば、必ず心所法が伴って運行する。心所と識心は相互に分離しない。車があれば必ず車輪があり、人がいれば必ず身体があるのと同じ道理である。
心所法の見と仏性の見性は二つの異なる方式の見であり、機能作用が異なる。仏性は仏性であり、心所法は心所法である。この二者は異なる側面から如来蔵が諸法を見、諸法を運行することに協働する。仏性の見は一定の条件を必要とする。例えば明暗などである。涅槃の状態には明暗生滅の相がなく、妄法もないため、仏性は作用を起こさない。しかし心所法の運行にはいかなる条件もなく、決して停止せず、永遠に作用し続け、如来蔵から離れない。如来蔵が存在すれば必ず心所法がある。
2
+1