如来蔵は業種を了別し、業種が成熟したかどうかを知り、いつ業種を現行させて果報を実現すべきかを知ることができるが、如来蔵のこのような機能作用は任運自然であり、本来からの法則である。決して自ら進んで果報を実現しようとするのではなく、因縁が現前した時には必ず因縁に随順し、因縁に逆らうことはない。しかし、いずれにせよその心は変わらず、如如不動であり、永遠に無事人(何事にも動じない存在)であって、微塵も心に留めない。
如来蔵には思心所があり、決定を下すことができるが、決定を下せるからといって主導権を握れるわけではない。なぜなら前五識にも思心所があり、決定を下すこともできるが、主導権は握れず、指示に従うことしかできないからである。いわゆる決定とは、触れ知った法に対して心に決定を得、法を運行させて現前させ、了別した法を処理することである。これは各識の職分の範囲内であり、主導性を代表するものではない。もし主導性を代表するのであれば、衆生には八つの主導識が存在し、互いに牽制し干渉し合うことになり、それではとっくにおかしくなってしまうはずではないか?
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