正法念処経第六十一巻原文:かくの如き悪人は、比丘たる者一切近づくべからず。何故ならば、かかる人に近づけば、比丘の法を失う。世間の人々はかくの如く思う『この比丘はかかる人に近づけば、必ず彼と同道す』と。かかる人と親しく交わり共に行ずれば、一切の人々にこの如き念いを生ぜしむ。故に比丘は悪名を畏れ、この不浄業の人と同路にて一足の地をも行ずべからず。
釈:仏が何故比丘に悪人を避け、悪名を畏れるよう求められるのか。比丘は出家僧として三宝を代表し、衆生の依止処である。もし比丘が悪人と同道すれば、名声に影響を受け、衆生に嫌われ、三宝を尊崇せず恭敬信頼せず、甚だしくは三宝を誹謗し悪業を造作するに至らしめる。故に仏は比丘に対し、かかる種々の悪人を回避し、連座して悪名声を被り衆生の嘲笑を招かぬよう命じられる。よって比丘の一切の行為は律儀と規範に適うべきである。衆生を度するためであっても、他の衆生に誤解されぬよう方策を講じ、解釈のつかぬ事態があれば他者に知られぬよう避けねばならない。これは丁度大人が子供の知恵では到底理解し得ぬ事柄を、知らせぬよう遠ざけるが如し。衆生は子供の如きもの、如何ともし難い。成長すれば自然に解るようになろう。
衆生を度す菩薩たる者、縁熟した悪人を度す必要あれば、善巧方便を用い方法を適え、衆生の誤解と誹謗を極力避けねばならぬ。このような事は智慧足らざる者には円融に為し得ず、大智慧ある者のみ成し得る。衆生の種々の煩悩無明は交わり難き故なり。もし悪人の縁熟さざれば避けるべく、より重要な事柄に精力を注ぐべき。精力有限なれば選択を要し、利益最大のものを智慧をもって択ぶべし。
仏が比丘に悪名を畏れさせ、在家菩薩には畏れさせぬのは、共に衆生を庇護するためで、問題処理の方式が異なるのみ。但し菩薩たる者、悪名を畏れぬと言えども智慧の選択を要す。悪名を恐れぬからとて一切を顧みず、衆生と仏教の利益を省みず、仏教に悪名を着せ衆生をして三宝を嘲笑せしめ種々の悪業を造作させるようなことがあってはならぬ。故に弘法者は身心清浄で煩悩軽微、私心無く、仏教の大局を重んじ衆生の利益を第一とし、清浄なる身口意行をもって衆生を正途に導かねばならない。衆生を汚染し更なる煩悩を増長させ、度衆生を害衆生と化せしめてはならぬ。
在家の菩薩道行者は、度し得る人を極力度し、善法を薫染せしめ得る人を薫染すべし。心に警戒して同化されず逆薫染されぬ限り、これに勝る善は無い。仏が比丘たちに悪人と表立って同道同業せぬよう命じるのは、衆生の誤解と嘲笑を招き三宝誹謗に至らしめるのを恐れる故。出家の身分は特殊で三宝を代表し、衆生の依止処であるが故に、衆生の嘲笑誹謗を招くべからず。もし比丘の自制力弱く自ら未だ度を得ず心安らかならざれば、確かに悪人悪事を遠ざけ薫染同化されぬようすべきである。
煩悩未断の者は出家在家を問わず悪に薫染され易く、悟りを得た後も油断すれば悪に薫染され得る。定力と警戒心を保ち智慧あれば薫染され難し。真に完全に薫染されぬのは仏地に至りてなり。八地以上の菩薩は極めて微細に薫染され、初地から七地は稍多し。地前の菩薩が薫染されぬのは煩悩根本を断ぜざる故に叶わず、凡夫は言うに及ばず。故に人は清浄なる団体にあれば清浄に薫染され、染汚の団体にあれば心知らず染汚に随う。避け難きことなり。我もまた薫染を恐る。幼少より今に至るまで薫染されつつある。故に煩悩重き人は極力避け、薫染されぬよう努めても拒絶と牽引に力を要し、互いに愉快ならざる。煩悩を断じた菩薩の薫染は枝葉微細の染汚に過ぎず、仏法を学びて後は速やかに振り落とし根本に影響せず、過ちを犯せば懺悔して事無く、受報も軽微なり。
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