禅定、智慧、勝解力は識心の心所法であり、識心の作用でもある。これらは五別境心所法に属し、七識にとっては別々に現行するものであり、常時現行するものではない。常時現行するのは五遍行心所法である。しかし諸仏および大菩薩の七識には常時・随所に禅定・智慧・勝解力が具わっており、五別境心所法は常時現行するものではないが、常時現行することも可能である。如来蔵の禅定・智慧・勝解は常時・随所に現行しており、無余涅槃の中においてすらそうである。
如来蔵の定力が如何ほどであるかは、観察すれば相当に強大であると分かる。それは一切法の運作の中で、如何なる境界に遭遇しようとも、如如として動かず、風がどう吹こうと微動だにしない。泰山が押し寄せようと腰を屈めず、是非曲直がどうあれ一切顧みず、既定の法則に従って任運に行動する。仏はこれを「首楞厳大定」と説き、決して出定せず入定も必要とせず、一切法において揺るぎなく、比類なき真実の宝山である。無余涅槃の中で如来蔵に禅定がなければ、如来蔵は心が散乱することになる。しかし如来蔵が首楞厳大定であり、出ず入らずであるならば、永遠に出定せず、どうして散乱して禅定を失うことがあろうか。
如来蔵の慧力は如何ほどか。無余涅槃の中においてすら、常に業種を了別しなければならない。もし如来蔵に智慧がなく勝解がなければ、業種が何であるか、熟したかどうかを知ることができず、阿羅漢は永遠に涅槃を出て意根と五蘊身を持つことができない。如来蔵の智慧は増減せず、永遠に般若の大智慧を具え、一切法を了別し、一切法を造り出し、一切法を執持する。無余涅槃の中にも依然として如来蔵が直面する法があるため、如来蔵の心所法は依然として存在する。
もし如来蔵が耳根を出生し、五蘊身を出生し、一切法を出生する際に、突然定力が不足し、慧力も不足し、業種がどのようなものかも分からなくなったら、結果はどうなるか。結果として如来蔵が不注意にも四大種子の数量を少なく送り、比率構造を間違え、種子を誤って送れば、出生する法は取り違えられ、一切法は本来の面目を失い、世界は混乱する。もし如来蔵に極めて強い勝解力がなければ、意根の心思すら理解できず、結果はどうなるか。一切法は合理的に現れず、願い通りに現れず、衆生が発願しても無駄になり、あらゆる考えも無意味になり、五蘊世間は正常でなくなる。
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