瞋恚心、慢心、嫉妬心、煩悩心、これらはどのように生じるのでしょうか。例を挙げますと、嫉妬心と慢心は同種の心です。他人が「私」より優れていると不快になるのが嫉妬心、「私」が他人より優れていると思うのが慢心です。
よく観察すれば、必ずある事柄に対する認識が基になります。他人が自分より優れていれば嫉妬し、劣っていれば慢心する。これを解決するには「私」を捨てることです。世間の事象は「森羅万象」という成語の如く、華厳経では「海印森羅」と表現されます。つまり世の事柄は無数に存在し、各々に専門があります。他人の優れた点は称賛すべきであり、自分の優れた点は謙遜すべきです。自分より優れた人は大勢いますから、慢心する必要などありません。事柄自体に情緒はなく、情緒を生むのは人の妄想に過ぎず、それは空しく実体のないものです。事象自体も刹那に生滅変化するもので、誇るべき点や嫉むべき点などどこにあるでしょうか。
さらに深く観察すると、「私を捨てる」とは、実は空幻のものを捨てることであり、何かを捨てたわけではありません。事柄には増減がなく、何の妨げにもならず、かえって平静さを得られます。
先に述べた様々な心は、分別によって生じます。分別があれば様々な心が生じ、これを「森羅万象」と呼びます。森羅万象は鏡に映る影の如く、これを心法あるいは法界と言います。鏡が森羅万象を映すのは鏡本来の機能で、仏典では「法爾如是」と称します。この機能を性(しょう)と言い、見性とも呼びます。森羅万象を分別する機能が識(しき)であり、これを細分すれば八識となります。鏡を「如」と言い、映る物象を「来(去)」と言います。鏡にはさらに写した像を残す機能があり、カメラのフィルムの如く、これを種子と呼びます。種子を留める機能を蔵(ぞう)と言い、全体を如来蔵と称します。この理を理解せずにいれば「蔵(ぞう)」ですが、悟れば「宝蔵(ほうぞう)」となります。
世間で言う「我」と仏菩薩の説く「我」は異なります。世間の「我」とは役割に過ぎず、父、母、子、上司、部下、商人、運転手、信徒など無量の役割があります。「我」は様々な役割を演じますが、役割自体が「我」ではありません。役割を演じるのは身体であり、身体を以て役割に入るため、我々は身体を「我」と錯覚します。身体は器物のようなもので、思想によって操作されるため、我々はさらに思想を「我」と錯覚します。思想は役割の台本であり、身体は役割の小道具です。
思想という役割は心法です。一念の無明から三細(業相、転相、境界相)が生じます。師の法義を仔細に学べば、唯識がこれらの分類を詳細に解説していることが分かります。これは真に世間を超越する大法要です。師は意根の重要性を強調されていますが、前提として意識でこれらの理路を明らかにし、意根で証得する必要があります。凡人でも意根に証量はありますが、世間の名利や情愛に執着するのは歪んだ証量で、凸凹鏡の如しです。意根の認知を転換すれば、転換前は混乱していたものが、正しい認知を得れば清涼となります。
評:これは純粋に実証から得られた見地です。世俗の名と色の法相を見破り、五蘊の法相をも破する深い智慧です。法相を破して初めて五蘊の束縛から解脱します。法相の苦・空・無常・無我を実証しなければならず、意識的理解だけでは事に臨んで役立ちません。
真に実証した者だけが煩悩を離れます。意識的理解では煩悩を解決できず、小乗の観行や実修、禅定や戒律を飛び越えて大乗如来藏を解しても、五蘊を破る智慧は得られません。五蘊が破れなければ依然として煩悩に囚われ、悪業を造り続けます。真の修行はどの段階も飛ばさず、どの法行も軽視せず、自らの智慧を過信せず、現実に即して着実に進むことで真の智慧が生じ、心が世俗を離れて解脱するのです。
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