意根による念仏とは、心から真実をもって仏を念ずることであり、形だけの口先だけの念仏ではありません。これを実践するためには、念仏に対する認識を正しく持ち、思想を根本から転換し、深く信じて切なる願いを起こし、全ての行為を仏に向け、身心の世界全体が仏に満ち、娑婆縁を放下し、一念一念が極楽となる必要があります。心法と行門が具われば、命終われば必ず極楽浄土に往生します。
仏法における全ての修行法門には二つの側面があります。一つは内在的な心の門、もう一つは外在的な行の門です。心の門は心を修め本性を養う門であり、道とも呼ばれ、意根の門です。行の門は功夫(修行)の門であり、術とも呼ばれ、六識の門です。もちろん意識は行門であるだけでなく心門でもありますが、意識の智慧は浅く容易に得られるため重点ではありません。道は根本的な内的原動力であり、術は末梢的なもので道に制約され、道を補助します。この二者が結合して初めて法門は成就します。
念仏法門も同様に、総じて信・願・行の三資糧を修めます。信願は道に属し、行は術です。念仏に成就を得るためには、まず道心が成就し、思想認識が転換し、覚悟心が生起し、大願が発せられた上で、精進する念仏行門の功夫が加われば、往生の希望は大いにあるでしょう。行門には戒定慧、菩薩の六波羅蜜、三十七道品の修行が含まれます。心門とは意根をもって念仏する門であり、意根に仏を念じさせるためには、仏の無量の功徳、無量無辺の偉大な事跡、慈悲喜捨の四無量心、仏の宏大な願力、三大阿僧祇劫にわたる修行の過程を理解させる必要があります。これらを理解すれば、自然と仏に対する無比の崇敬と憧れが生じ、自ずから精進して念仏するようになり、行門も容易に成就し、ついには念念仏三昧を修得するに至ります。
信願が具足した後、意根が降伏して世俗法を念わず、心が収摂されると、次第に禅定が現れます。この時、意識による念仏が意根を薫染し、言語・文字・音声のある形相を伴う意識の念仏から、言語・文字・音声のない無形相の意根念仏へと移行すれば、功夫は次第に成就します。もし意根を収摂せず、世俗法に攀縁し貪着し、心が散乱して専心念仏できなければ、念仏三昧は現れません。
心門を修めず行門のみを歩み、機械的に念仏し数量を追求するならば、功夫が深まるにつれ意根を薫染し、量変が質変に至り、意根の思想観念が転換し、心念が仏に満ちて三昧を修得するかもしれません。しかしこの方法は極めて困難で成功し難く、大多数の念仏者がこのように修行しています。長時間念仏を続け、念仏が極めて熟達し、思考を要せずあらゆる境界に出会えば、口を開けば自然に阿弥陀仏が現れるようになります。まるで自動人形のようですが、煩悩は依然として煩悩のまま、散乱は散乱のままであり、このような念仏に実質的な利益があるでしょうか。多くの寺院や団体で念仏七が行われ、一週間で百万遍の洪名を唱え、仏号が声声耳に入り念念と絶えませんが、世俗の雑事もまた事事心に入り、貪瞋痴の三毒は少しも減らず、業障もあまり消えず、念仏三昧の影さえ見えません。
全ての法門は心門であり、念仏法門もまた心門です。心を修めなければ成就し難く、心を修めるとは意根を修めることであり、意根を主として修行すれば、全ての法門が成就します。ただこの心は無始劫以来の染汚が甚だ重く、煩悩が熾盛で、把握し難く降伏し難いものです。しかし苦海を脱するためには、いかに困難でもこれを転換し降伏させる方法を講じなければ、依然として生死の苦海に沈み抜け出せないでしょう。
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