衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年11月28日    火曜日     第1開示 合計4062開示

白雪香による法相の解明

瞋恨心・傲慢心・嫉妬心・煩悩心、これらはどのように生じるのでしょうか。例を挙げてみましょう。嫉妬心と傲慢心は実は同類の心です。他人が「私」より優れていると不快に感じるのが嫉妬心、「私」が他人より優れている点があると思うのが傲慢心です。

よく観察すると、必ずある事柄に対する認識が存在します。他人が自分より優れていると嫉妬し、自分が他人より優れていると傲慢になります。これをどう解決するか。「私」という概念を捨てることです。世の中には「森羅万象」という成語がありますが、華厳経では「海印森羅」と形容されています。つまり世の中の事柄はあまりにも多く、それぞれ専門分野が異なります。他人が優れているなら称賛すべきであり、自分が優れているなら謙虚であるべきです。なぜなら自分より優れた人は大勢いるのですから、傲慢になったり誇ったりする価値など全くありません。事柄そのものには何の感情もなく、感情を生み出すのは人の想像に過ぎず、それは空幻で実体のないものです。事柄そのものもまた瞬時に変化し生滅するものであり、誇ったり嫉妬したりする必要などどこにあるでしょうか。

さらに注意深く観察してみてください。私が「私を捨てる」と言うのは、感情が生じたならその感情を捨てるということです。実は捨てているのは空幻なものに過ぎず、何かを捨てているわけではありません。事柄そのものには増減がなく、何の妨げにもならず、むしろ非常に平穏な状態をもたらします。

先ほど様々な心について触れましたが、心には様々な分別があり、様々な分別があるから様々な心が生じます。これを「森羅万象」と言います。森羅万象は鏡に映る影のようなもので、これを「心法」とも「法界」とも呼びます。鏡が森羅万象を映し出すのは鏡本来の機能であり、仏典では「法爾如是(ほうにょにょぜ)」と言い、この機能を「性」、すなわち「見性」と言います。森羅万象を分別する機能が「識」であり、識を細分化すると八識になります。鏡自体を「如」と言い、そこに映る物象を「来(去)」と言います。この鏡にはもう一つの機能があり、映した後にネガフィルムを残します。カメラのフィルムのようなもので、これを「種子」と言います。種子というネガフィルムを留める機能を「蔵(cang)」と言い、全体として「如来蔵」と呼ばれます。その使い方を知らず理解できない状態では「蔵(cang)」と呼ばれますが、悟り大いなる覚りを得れば「宝蔵(zang)」となります。

世間で言う「私」と、仏菩薩が説く「私」は同じものではありません。世間で言う「私」とは役割に過ぎず、世の中の様々な役割(例えば父、母、息子、娘、上司、部下、買い物客、商人、運転手、アメリカ人、中国人、信者など無数無量の役割)を列挙できます。「私」は様々な役割を演じますが、役割そのものが「私」ではありません。何を使ってこの役割を演じるのか?答えは身体です。身体を使って役割に入り込むため、私たちはつい身体を「私」だと思い込んでしまうのです。身体はあたかも物体のようなもので、思考によって支配される必要があるため、私たちはまた思考を「私」だと思い込みます。思考は役割の台本であり、身体は役割の小道具です。

思考という役割は心法であり、「一念の無明から三細(業相・転相・境界相)が生じる」と言われます。師の法義をよく読みなさい。唯識はこれらの分類を非常に詳細に解説しており、まさに人を世間から出離させる大法要です。師は意根の重要性を強調していますが、その前提として意識上でこれらの脈絡をはっきりと理解し、その後で意根を用いて証得する必要があります。実は私たち普通の人でも意根には証量があります。例えば世間の名利や情に非常に執着するのも意根の証量ですが、それは歪んでおり、歪んだ鏡のようなものです。そうでなければそれほど難しく証得できないこともないでしょう。意根の認識を転換するのです。転換前の意根は絡まった糸の塊のようなものですが、正しい認識を得た後、意根の認識を修正し、転換すれば清涼な状態となります。

評:これは純粋に実証によって得られた見地であり、非常に智慧に満ちています。世俗界における名と色の法相を破砕しており、その程度も浅くはありません。こうして五蘊の法相もまた破砕されます。法相を破砕して初めて、五蘊の法相から解脱し、法相に束縛されなくなるのです。破砕するためには法相の苦・空・無常・無我という性質を実証しなければならず、意識による理解の作用は非常に微少で、具体的な事柄に直面すると全く役に立ちません。

実証した者だけが煩悩を持たないのです。意識で解き明かしただけでは煩悩の問題は解決せず、したがって小乗の観行や実修を飛び越え、禅定や戒律も越えて、いきなり大乗の如来蔵を解こうとする人が少なくありません。たとえ解き明かせたとしても、五蘊を打破する智慧は得られず、五蘊が破れない限り依然として元のままで煩悩が重なり、悪業も造り続け、一片の解脱の影さえ見えません。真の修行はどの段階も飛び越えず、どの法の修行作用も軽んじず、ましてや自らの智慧を過大評価することもなく、事実に基づき着実に歩むことで初めて何かを成し遂げ、真の智慧が生まれ、心が世俗界から離れて解脱を得るのです。

——生如法師の開示
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