衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年11月27日    月曜日     第2 回の開示 合計4061回の開示

意根を用いて念仏するにはどのようにすればよいですか?

意根念仏は真心を込めた念仏であり、形式ばった掛け声や口先だけの念仏ではない。これを実践するには、念仏に対する認識を正しく持ち、思想を根本から転換し、深く信じ、切なる願いを抱き、全ての行為を仏に向け、身心の世界全体を仏に満たし、娑婆の縁を捨て、一念一念が極楽となる必要がある。心法と行門が具われば、命終われば必ず極楽浄土に往生する。

仏法における全ての修行法門には二つの側面がある。一つは内在的な心の門(心門)、もう一つは外的な行の門(行門)である。心門は心を修め本性を養う門で、道とも呼ばれ、意根の門である。行門は修行の技量を磨く門で、術とも呼ばれ、六識の門である。ただし意識は行門であると同時に心門でもあるが、意識の智慧は浅く容易に得られるため重点ではない。道は根本的な内的原動力であり、術は末端で道に従属し、道を補佐する。この二者が結合して初めて法門は成就する。

念仏法門も同様に、総じて信・願・行の三資糧を修める。信願は道に属し、行は術である。念仏に成就を得るには、まず道心が成就し、思想認識が転換し、覚悟の心が生起し、大願が発せられた上で、精進する念仏行門の修行が加われば、往生の望みは極めて大きい。行門の業には戒定慧、菩薩の六波羅蜜、三十七道品の修行が含まれる。心門とは意根で念仏する門であり、意根に仏を念じさせるには、仏の無量の功徳、無量無辺の偉大な事跡、慈悲喜捨の四無量心、宏大な願力、三大阿僧祇劫にわたる修行の過程を理解させる必要がある。これらを理解すれば、自然に仏に対する無比の崇敬と憧れが生じ、自ずから精進して念仏するようになり、行門が容易に成就し、ついには心心念念仏となり、念仏三昧が修められる。

信願が具足した後、意根が降伏して世俗法を念わず、心が収められると、次第に禅定が現れる。この時、意識の念仏が意根を染め、次第に言語・文字・音声を伴う有相の念仏から、言語・文字・音声を離れた無相の念仏へと移行すれば、修行は漸く成就する。意根を収めずに世俗法に攀縁し、貪着し、心が散乱して念仏に専心できなければ、念仏三昧は現れない。

心門を修めず行門のみを歩み、機械的に念仏し数量を追求するならば、量変が質変に至り意根の思想観念が転換し、心念が仏に満ちて三昧が成就するかもしれない。しかしこの方法は極めて困難で成功し難く、大多数の念仏者はこのように修行している。長時間念仏を続けて極めて熟達し、意識せずともあらゆる境界に際して自然に阿弥陀仏の名号が口をつけば、自動人形の如くではあるが、煩悩は依然として消えず、散乱も変わらず、これに何の実質的な利益があるだろうか。多くの寺院や団体で行われる念仏会では、一週間で百万遍の名号を称え、仏号が声々に耳に入り念々と続くが、世俗の雑事も心に染み込み、貪瞋痴の三毒は減らず、業障も消えず、念仏三昧の影さえ見えない。

全ての法門は心門であり、念仏法門も心門である。心を修めなければ成就は難しく、心を修めるとは意根を修めることであり、意根を主として修行すれば、全ての法門が成就する。ただこの心は無始劫以来の染汚が甚だしく、煩悩が熾盛で把握が難しく、降伏し難い。しかし苦海を脱するためには、いかに困難でもこれを転換し制する方法を求めねば、依然として生死の苦海に沈み自拔できぬままだ。

——生如法師の開示
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