善根の「善」とは、仏法において善き心と清らかな心をもって修める善業、行う善行を指す。例えば、深く心を三宝に帰依し、三宝を供養し、正しく仏教を信じ、戒・定・慧を精進して修め、相当なる福徳と仏法の理念を備え、もはや世俗の法を帰依の対象とせず、大菩提心を発して一切の衆生を救済せんと誓願することである。三宝の教えに背かず、仏の説く一切の経典を深く信じ、教導に随順し、喜んで修習し誹謗せず、仏の教化を受け、仏の深い恩徳を感じ、身心のすべてをもって佛法僧の三宝に報いんと願うことなどである。善根の「根」とは、器量(うつわ)の意味であり、既に種となったことを示し、基礎が堅固で確かで揺るぎないことを意味する。善法が深く心に宿った状態であり、また善法と善果を生長させうる力を指す。この善根がなければ、極楽世界及び諸々の上善人(すぐれた修行者)と相応せず、相応しなければ極楽世界に共に住むことはできない。
以上は善根の定性的な記述であり、定量的に記述することはできない。善根の深浅を判定する基準は具体的に示すことができず、相当の経験と智慧を備えた者だけが理にかなって真実のままに判断できる。経験と智慧がなければ、たとえ基準が示されても、それに基づいて真実を判断することはできない。これは世俗法の判断とほぼ同様である。例えば大学教授と講師の等級評価には基準があるが、小学生や中学生はそれに基づいて真実を判断できず、素人は専門家を判断できず、低いレベルの者は高いレベルを判断できない。
仏法の修持の程度に関する判断はなおさらである。大多数の者は素人や低い段階にあり、どうしてある人物が善知識(良き指導者)であるか、悟りを開き地(菩薩の階位)に入っているか、説く法が真に仏の説かれた意趣に合致するかを判断できようか。たとえ基準答案と照らし合わせても、真実のままに判断することはできない。それゆえ衆生を深く害する邪魔外道については、仏・菩薩・護法神が密かに処理すればよく、衆生にそのいきさつを説明する必要はない。ある者は後になって長い思索を経て、次第に理解することもある。
福徳の面では、当然ながら極楽世界の衆生の福徳と同等でなければならず、天人の福徳と同等で、極楽世界の福を享受する資格がある。すなわち自らが既に極大の福徳資糧を積み重ね、命終わって初めて往生し、最終的に極楽世界でこれらの福徳を享受するのである。これほど大きな福業を種として植えていなければ、大いなる福を享受できず、往生できない。この種の福は主に清浄な福を指す。例えば戒律を保つ福、禅定の福、念仏の福、智慧の福、三宝を恭敬し信楽する福などである。これらの福はすべて仏法を学ぶ功徳と相応するものであり、娑婆世界で享受できる栄華富貴という世俗の福ではない。
往生の因縁とは何を指すのか。因縁はすなわち条件である。「因」は修めて得た善業の種子であり、例えば念仏の功徳によって一心不乱となり、心中で娑婆世界への執着を捨てて心が顛倒せず、戒・定・慧を具足し、貪・瞋・痴を降伏させ、一心に極楽世界を向往し、成仏して衆生を救済せんと願うことである。「縁」は善業の縁が熟し、善き友の助けがあり、悪業が現前せず、怨親債主(怨みある縁者や借財主)が遠ざかり、障害がなく、修めた福徳と功徳が命終わりに諸仏菩薩の聖衆が来たりて手を授け迎えることを感得できることである。善根・福徳・因縁のすべてが具わった者だけが極楽世界に往生でき、一般の者は修持が不足すれば往生できない。
37
+1