問:痒みを掻くことを例に取りますと、根塵が接触した後に作意があれば識が生じます(ここでは意根の作意が先にあり、場合によっては意根の作意が後になることもあります)。この時、意根が身識の動作を指揮しています。そこで私は考えました。第七識と第八識は相互に依存し(八識九縁)、意根が現れた以上、第八識は近くにあるはずです。つまり、根塵が接触し意根が作意する瞬間に、第八識が身識を顕現させ(三能変)、その後意根が身識を指揮して痒みを掻く動作を行わせる。この部分における第八識の存在は、私の妄想による倒錯なのか、それとも単なる解題の思路であって、第八識を証得するにはまだ程遠いのでしょうか。
答:あなたは現在、意根の働きを現前に観察しておらず、第八識の働きも現前に観察していません。従ってあなたが述べていることは事実ではなく、学んだ理論的知識を比量し、思惟し、推測し、臆測しているに過ぎません。これらは全て比量の境界であり、現量による観察がないため、真実と見なすことはできません。禅定を得ていない者がこのように法を学ぶ場合、意識の機能が強盛に先行し、実際には推測に過ぎません。仮に一切の法を正しく推測したとしても、それはあくまで推測であって、真実とは認められません。
私は多くの人々がこのような学法の状態にあるのを見てきました。一見聡明に見え、問題の核心と着眼点を見つけ出し、近道を選んで意識的思惟による分析・帰納・整理・推測を用います。しかしこのような行いは自らの修行の道を阻害し、実修実証を妨げ、結果として聡明さが逆に災いとなります。更に多くの人々がこのような臆測を実証と誤解し、至る所で自分が悟りを開き聖者になったと宣伝しますが、これはまだ初学の段階であり、禅定が生起しておらず、戒定慧や菩薩の六波羅蜜はおろか三十七道品も修得しておらず、証悟の因縁と条件が大きく欠如しています。末法の時代の衆生は福徳が薄く、禅定を修得できず戒律を守ることもできず、更に福徳を修めることを望まず、ただ乾いた智慧を弄ぶに留まります。まさにこの乾慧が最も道を障げ、事を誤らせるものであり、往々にして自ら悟りの門を塞いでしまうのです。
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