衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年11月20日    月曜日     第1 回の開示 合計4054回の開示

五識が五塵を了別するには、なぜ意根による選択が必要なのか

問:私の体が痒い時、つい掻きたくなりますが、すぐに気付きます。これらは全て身識が触塵に接するもので、どこに痒みがあるというのでしょうか。作為を起こしてはなりません。そこでこの箇所に作意しなければ、痒みはすぐに消えます。もし引き続き作意すれば痒みは残り、再び作意しなければ痒みは消えます。往復二回、中間の間隔を少し長く置き、再び作意しなければ痒みは完全に消えます。痒みは本当に消えたのでしょうか。

答:根塵が触れ合って識が生じ、識が生まれると塵境を了別します。了別した後、受覚が生じ、冷熱触痛痒などを感じ、その後苦楽憂喜捨の情緒が生じます。これは十二因縁における六入・触・受の運行次第です。根塵が触れ合うかどうかは意根が決定します。例えば体が痒い時、意根が痒い箇所を作意せず注意を転移すれば、この場合意識と身識は痒い箇所に現れず、痒みという触塵は了別されず、受覚も現れず、痒みを感じなくなります。これは意根の注意力転移により、六識が此処に生じず、此処を了別しないためであり、痒みが存在しないわけではありません。もし意根が注意力を転移しなければ、身根が痒みの触塵と接し、身識と意識が痒みの触塵を了別して生じ、痒みを感じ、その後意根が掻く動作を選択し、身識と意識が掻く動作を行います。

これは意根が主導識であり、根塵の触れ合いを主導し、六識の生滅去来を主導し、六識の了別を主導し、身口意行を主導することを示しています。同時にこれは五根(眼耳鼻舌身)が五塵(色声香味触)と触れ合うかどうかは全て意根が決定し、五識の了別も意根が決定することを示しています。ここに疑問が生じます。なぜ意根は五識の出生と了別を主導するのでしょうか。五識が五塵を了別するのはなぜ意根の選択によるのでしょうか。意根がこのような選択ができるということは、必然的にまず五塵を了別し、その後取捨選択し、判断を下すことができるはずです。これは意根が六塵を了別できることを示しており、単に法塵だけを了別するのではありません。そうでなければ五根がどうして五塵に触れ、五識がどうして生じるのでしょうか。

——生如法師の開示
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