問:体が痒い時、つい掻きたくなりますが、すぐに気づきます。これらは全て身識と触塵によるもので、どこに痒みがあるというのでしょうか。作為を起こすべきではありません。そこでその箇所に作意しなければ、痒みはすぐに消えます。もし引き続き作意すれば痒みは残り、再び作意しなければ痒みは消えます。往復二回、中間の間隔を少し長くして、もう作意しなければ、痒みは完全に消えます。痒みは本当に消えたのでしょうか。
答:根と塵が触れ合って識が生じ、識が生まれると塵境を了別します。了別した後、受覚が生じ、冷熱触痛痒などを感じ、その後苦楽憂喜捨の情緒が生じます。これが十二因縁における六入・触・受の運行次第です。根と塵が触れ合うかどうかは意根が決定します。例えば体が痒い時、意根が痒みの箇所に作意せず注意を逸らせば、意識と身識は痒みの箇所に現れず、痒みという触塵は了別されず、受覚も現れず、痒みを感じなくなります。これは意根の注意力転移により六識が此処に生じず、此処を了別しないためであり、痒みが存在しないわけではありません。もし意根が注意力を転移させなければ、身根と痒みの触塵が接触し、身識と意識が生じて痒みの触塵を了別し、痒みを感じ、その後意根が掻く動作を選択すれば、身識と意識が痒みを掻くことになります。
これは意根が主導識であり、根塵の接触を主導し、六識の生滅去来を主導し、六識の了別を主導し、身口意行を主導することを示しています。同時に、五根(眼耳鼻舌身)が五塵(色声香味触)と接触するかどうかは全て意根が決定し、五識の了別も意根が決定することを示しています。ここに疑問が生じます。なぜ意根は五識の出生と了別を主導するのでしょうか。五識が五塵を了別するのはなぜ意根が選択するのでしょうか。意根がこのような選択ができるなら、必然的にまず五塵を了別した上で取捨選択し、判断と決断を下すはずです。これは意根が六塵を了別できることを示しており、単に法塵だけを了別するのではありません。そうでなければ五根がどうして五塵に触れ、五識がどうして出生できるでしょうか。
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