自らの心に煩悩が生じた時、それを発見すると学んだ法義を思い起こします。一切の人事物は空であると悟り、この煩悩を起こすべきではないと感じ、そうして煩悩を消し去り、あたかも最初から煩悩がなかったかのようになります。これは煩悩を断じた境地でしょうか? 決してそうではありません。これは「念起即覚、覚之即無」の境地ですが、覚る前に既に念が生じ現れているため、存在しなかったとは見なせません。
念が生じた時点で既に煩悩があり、煩悩がある限りそれは断煩悩の境地ではありません。その後どうなろうと、煩悩が発生した事実は意根に煩悩が存在し、かつ顕現したことを証明しています。意識が後天的に後覚するのに対し、意根は先天的に煩悩を具え不覚なのです。意根の煩悩を常に意識で発見・管理することは困難です。第一に、意識が煩悩を制止する前に業行が形成され業種を残す可能性があり、第二に、意識は常に意根と共に作動せず、常に清明で覚醒しているわけでもなく、微弱・混濁・消失する時があるため、意根の煩悩を発見管理できません。
煩悩が生じたら断ち切るのは修行初期の段階で必要です。禅定を得れば次第に念頭が減少し、自然に煩悩が起きず、徐々に煩悩を降伏させます。強引に念頭を断つ煩悩降伏は困難であり、最終的には伏惑も断惑もこのような対治法を要しません。禅定が現前すれば煩悩は自然に起こらなくなります。禅定中に煩悩が自然に薄れ軽くなり、やがて伏せられ、最終的に禅定中に自然断除されます。禅定を得た者はこの理を理解できます。禅定が生起し堅固な方々、自らの煩悩を特別に対治したでしょうか? 禅定中に自然に現れなくなったのでは? 禅定なき者は定力不足のため、自ら内面対話し意識で意根に道理を説く必要があります。禅定ある者は意根が自然に教導に従い、自然に熏習を受けます。
例えば「気満ちれば食を思わず」とは、食事を制する対治の結果か、自然に現れた結果か? 強引に食事を控えるのは困難で苦痛を伴いますが、禅定修行で体内の気が充足すれば胃に気が満ち、自然に空腹を感じなくなります。「精満ちれば淫を思わず」も同様、禅定で精が充足すれば自然に淫欲の念が生じず、強制抑制は困難です。「神満ちれば眠らず」も禅定で神が充足すれば睡眠で神気を回復する必要がなく自然に眠くならず、無理に眠らなければ身体が耐えられません。他の煩悩の降伏・断除もこれに類似します。
修行の未熟者は未入門段階で理論で煩悩を対治・降伏させ、一時的に抑え込んで「煩悩を断った」「証果した」「明心した」と称しますが、実際は修行の門戸に入っていません。禅定の功徳こそが煩悩を降伏・断除します。禅定なき場合、理論が完璧でも煩悩に対処できず、一物が一物を制する如く、禅定が煩悩を制します。煩悩を降伏させれば業障と見道の遮障を降伏させ、遮障がなくなって初めて見道できます。故に煩悩を断たずして菩提を証得することは不可能です。
修行は自我を融解させる過程です。修行の方向性が正しく、方法が適切で、精進して道を実践すれば、自我は徐々に融解し、当然自我に関連する煩悩も次第に融解し、知らぬ間に消滅します。しばらく修行を重ね振り返れば、自らが変化したことに気付くでしょう。どこに理論で煩悩を対治し、煩悩が現れては引っ込める理があるでしょうか?
23
+1