衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年11月19日    日曜日     第1 回の開示 合計4053回の開示

煩悩はどのように調伏し、断除されるのか

自らの心に煩悩が生じた時、気付いた後で学んだ教義を思い起こし、一切の人事物が空であると悟り、この煩悩を起こすべきではないと感じて、ただちに煩悩を消し去り、あたかも先ほどまで煩悩がなかったかのようになる。これは煩悩を断じた境地でしょうか。決してそうではありません。これは「念起即覚、覚之即無」の境地ですが、覚る以前にすでに念が生じ現れているため、発生しなかったとは見なせません。

念が現れた時点で既に煩悩は存在しており、煩悩がある限り断煩悩の境地とは言えません。その後如何なる状態になろうとも、煩悩が発生した事実は、意根に煩悩が存在し、かつ顕現したことを証明しています。意識が後天的に後覚するものであるのに対し、意根は先天的に煩悩を抱え無自覚なのです。意根の煩悩を常に意識に発見・管理させることは不可能です。第一に、意識が煩悩を制止するのに遅れれば、煩悩業行が形成され業種を残します。第二に、意識は常時・随所で意根と共に作用するわけではなく、常に清明で覚醒しているわけでもなく、微弱・混濁・消失する時もあり、その場合は意根の煩悩を発見・管理できません。

煩悩が生じたら即座に断つことは修行の初期段階で必要な行いです。禅定を得た後は次第に念頭が減少し、自然に煩悩が起こらず、徐々に煩悩を降伏・圧伏します。強引に念頭を断つ降伏方法は困難を伴いますが、究極的には伏煩悩も断煩悩もこのような対治を必要とせず、禅定が現れると煩悩は自然に起こらなくなります。禅定中に煩悩が自然に薄れ軽くなり、やがて伏せられ、最終的に禅定の中で自然に断除されることを、禅定を得た者は理解できます。禅定が生起し堅固な方々、自らの煩悩を特に対治したでしょうか。禅定中に自然に現れなくなったのではありませんか。禅定なき者は定力不足のため、自ら内面対話し意識で意根に道理を説かざるを得ません。禅定ある者は意根が自然に教導に従い、自然に薫習を受けるのです。

例えば「気満ちれば食を思わず」、これは対治による結果か、自然に現れた結果でしょうか。強引に食事を控えることは困難で苦痛を伴いますが、定を修めて体内に気が満ちると、胃に常に気が充実し自然に空腹を感じなくなります。「精満ちれば淫を思わず」、これも対治の結果か自然の現れでしょうか。定を修めて精が充足すれば自然に淫欲の念が生じず、強制した抑制は困難です。「神満ちれば眠りを思わず」、これも同様に定を修めて神気が満ち、睡眠で神気を回復する必要がなく自然に眠気が生じず、無理に眠らなければ身体が耐えられません。その他の煩悩の降伏・断除も全てこれに類します。

修行の門外漢は未入門段階で理論による煩悩対治・圧伏を用い、一時的に抑え込んで「煩悩を断じた」「証果した」「明心した」と称しますが、実はまだ修行の門戸を叩いていません。禅定の功徳こそが煩悩を降伏・断除するのです。禅定なき場合、理論が如何に完璧でも煩悩に対処できず、一物が一物を制する如く、禅定が煩悩を制します。煩悩を降伏させれば業障と見道の遮障を降伏させ、遮障なき時に初めて見道が可能となります。故に煩悩を断たずして菩提を証得することは不可能です。

修行は自我が融解する過程です。方向性が正しく方法が適切で、精進して道を実践すれば、自我は徐々に融解し、当然自我に関連する煩悩も次第に消融し、知らぬ間に煩悩が消滅します。しばらく修行を重ね振り返れば、自らが変化したことに気付くでしょう。どこに理論で煩悩を対治し、煩悩が頭をもたげては引っ込めるような理屈が必要でしょうか。

——生如法師の開示
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