衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年11月16日    木曜日     第1開示 合計4050開示

どのような身口意の行いが道に適うのか

修行に励む者は、日常生活において自らの心を顧みる。食事時の心の状態を観察し、飲食に対する貪りがあることに気づくと、食べる速度を遅くする。実際、空腹時にがつがつ食べることは必ずしも貪りとは限らず、よく噛んで味わうことの方がむしろ貪りである場合もある。味覚の対象への執着は貪りの一種であり、飲食への貪りには色・香り・味・触感への執着が含まれる。色・香り・味・触感に執着せず、単に空腹を満たすためだけならば、それは貪りの心ではない。したがって食事の際にも貪りの心を持たずに食べることができ、むしろ貪りの心を持たずに速く食べることさえ可能である。

貪りの心とそうでない心をどう区別するか。昔、在家の弟子が大珠慧海禅師に尋ねた。「師父、あなたの食事と睡眠は凡夫のそれとどう違うのですか?」慧海禅師は答えた。「凡夫は食事をするときに食事に専念せず、あれこれ求め、眠るときも眠りに専念せず、千々に思い悩む。私はそれほど多くの考えを持たず、ただ食べ、ただ眠るだけだ」。食事に対して何の考えも持たないとは、食事中に何も考えずに専念するという意味ではなく、飲食に対して余計な要求を持たず、選り好みせず、貪りの心がないことを指す。

凡夫が食事に対して「あれこれ求める」とは具体的に何を求めるのか。大まかに言えば、色・香り・味・触感、そして色身を保養するための滋養に過ぎない。細かな要求は数えきれないが、要するに貪りであり、すべて我見・身見がもたらす結果である。悟りを得た者は腐った飯や残り物でも構わず、空腹を満たして修行に支障がなければ十分で、それ以外の要求はない。凡夫が睡眠時に「千々に思い悩む」とは具体的に何を悩むのか。大まかに言えば色・声・香り・味・触・法という六塵の境界についてであり、細かく言えば家屋や寝床、寝具などに対するこだわりである。本質的にはすべて身見・我見の現れである。

一個人に修行があるかどうかは、日常の些細なことではっきりと見て取れる。あらゆる細部から我見の有無が判別できる。我見が絶えない者は色身への要求が多く、それを維持するために極めて多くの貪りの心と行為が現れる。本人は気づかず、無意識のうちに貪りの行為が現れる。これが意根の貪りであり、習慣的なものである。習慣化しているため、それを正常で正当だと考えてしまう。もし自分とは異なり、何にも執着せず選り好みしない者がいれば、異常だと考える。これを倒錯という。日常の行いのうち、どれが道に適い、どれが適わないか、自らよく観察し区別し、絶えず自己を修正してこそ、早く悟りを開くことができる。

身の行いと言葉の行いは、どちらも心に支配される。心が凡夫の貪着の心であれば、身と言葉の行いには無意識のうちに貪りの心行が現れる。修行のない凡夫の中には、自分に修行があるように見せかけようとする者がいる。しかし、どのような行為が修行者らしく、どのような行為がそうでないかを知らない。仮に装おうとしても長くは続かず、肝心の装い方さえ分からない。そのため、時折、修行のない行為を露呈してしまう。素人目には見分けがつかない。

実際のところ、凡夫は朝目を覚ましてから一日の活動を始め、夜に眠りにつくまで、さらには夢の中でも、一日の中で道に適った正しい身・口・意の行いをほとんど行っていない。これは誇張だろうか。誇張ではない。心が道と調和しなければ、身と言葉の行いも道と調和せず、時と場所を問わず無明の煩悩の行いとなる。

どのような心行が道と調和するかを知ることができれば、どのような身行や言葉の行いが道行を備え、どのような行いが道行を欠くかが分かるようになる。こうして一個人が悟りを開き果を証したかどうか、道行があるかどうか、修行の段階がどの程度かを大まかに判断できるようになる。目が明るくなれば、騙されたり、搾取されたりすることはなくなる。

——生如法師の開示
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粗大な貪愛を降伏してこそ禅定と我見を断つことが必要である

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