衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年11月17日    金曜日     第1開示 合計4051開示

粗大な貪愛を降伏してこそ禅定と我見を断つことが必要である

あらゆる娯楽活動を好むこと、琴棋書画や種々の芸術などはすべて貪愛の範疇に属します。世間の観念においてこれらがいかに高雅で高尚、高貴で美妙であろうと、いかに心を楽しませ目を喜ばせるものであろうと、道に反するものであり、すべて世間の有に属するため、輪廻の中の事物です。貪着すれば輪廻から出ることはできません。心に貪愛があると餓鬼道と相応し、命終すれば餓鬼道に赴いて報いを受けます。貪の範囲は非常に広く、ほとんど至る所に貪があります。好きだという気持ちや執着、執取があれば、すべて貪愛に属します。ですから、仏法を学ぶかどうかにかかわらず、その善業が天界に生まれることや人間界に生まれることに十分でない者は、その種々の貪愛によってほとんどまず餓鬼道で報いを受け、その後畜生道で報いを受けます。悪道の業が一時的に尽き、なおいくらかの福が残っている時に初めて人間界に戻ってきます。欲界の法を貪れば欲界を出ず、人間界の法を貪れば天界に生まれず、さらには人間界に生まれることさえもできません。

飲食欲は人間界で最も浅はかで最も降伏しやすい煩悩であり、修行の第一関です。この関を突破できなければ、他の貪はさらに降伏が難しくなります。凡夫のあらゆる過ち、数えきれない過失は、日常生活の細々とした貪に現れています。至る所で貪り、至る所で執取し、生きることに「こだわり」と呼ばれるものがあります。何にこだわるのか? 何にでもこだわり、どんな法も空じることを肯んぜず、すべて最高のものを追求します。この「食べること」一つとっても、そのバリエーションは実に多く、こだわりも非常に多いのです。しかし果報は往々にして求めるものと反対で、貪食は餓鬼に生まれさせ、慢心は色身を短小にさせるなどします。

人間界の男女の欲は最も重い貪りです。もしこれを降伏できれば初禅定を修めることができ、男女欲貪を断除すれば後世に初禅天に生まれることができます。人間界の衣食住行の貪欲を降伏できれば未到地定を修め、それによって人間界の煩悩を降伏し、死後は欲界天に生まれます。禅定を修められない者は、自らの心の中の種々の貪りを点検すべきです。人間界の高層ビルや錦衣玉食の享受には代償が伴い、福報を享け尽くせば人間界に生存し続けるのに十分ではなくなり、三悪道に赴いて罪を受けるほかありません。ですから富貴栄華を享受することを好む者は、早くに目を覚まして計画を立て、世事の栄華の実体なきものを見抜き、虚栄を慕わないようにすべきです。

なぜ禅定はすべて天道と相応し、命終すれば天に生まれるのでしょうか? 天道の衆生はすべて相応する善業を持ち、心はすべて善く、貪瞋痴の煩悩は微細です。欲界天は主に善業の感召によるもので、善業の果報であり、また少しの禅定の果報もあります。色界天と無色界天は主に禅定の果報です。もし相応する禅定がなければ色界天や無色界天に生まれることはできません。ですから禅定は必ず煩悩を降伏させ断除します。我見を断つことと明心見性には少なくとも未到地定が必要であり、欲界の粗重な煩悩を降伏させなければなりません。名聞利養、財色名食睡はすべて欲界の煩悩であり、このような重い煩悩を持つ者は禅定を持つことができず、我見を断つことも、明心見性することも、ましてや入地することも不可能です。

もし我見を断ち明心見性したと自称しながら、なお普通の人と同じように明らかな貪瞋痴の煩悩があるならば、それは真に我見を断ったのでも、真に明心見性したのでもありません。世間の人は修証のことを理解せず、往々にして自分や他人の修行を過大評価し、誤解が多くあります。我見があるために、低く誤解することはなく、高い方へと誤解します。以前、何人かの人が私に自分は我見を断ち明心したと言い、私に検証を求め、証明を求めてきました。そこで彼らは繰り返し如何に無我か、如何に空かを語りました。実際、これらの理論は至る所にあり、容易に得られます。私はこれらの記述を聞いただけで、何かを真に証得したかどうかを判断できるでしょうか? もちろんできません。耳で聞くより目で見る方が良いのです。

実際、ある人が何かを断ったか、何かを証得したかを判断するのに最も重要なのは、彼が何と言うかではなく、彼がどう行動するかを見ることです。行いが最も真実を表します。ですから非常に簡単な判断方法は、その言葉を調べ行いを観察し、その人の身口意行、衣食住行に対する態度、物質色法に対する態度を観察することです。これらは最も粗い煩悩の所在であり、修行過程で最初に変えるべきものです。やや細かい煩悩は、精神心識に対する態度、つまりその人の思想観念です。これらもまた何らかの変化がなければ、何も断っておらず、何も証得していないことになります。五蘊無我を証得し、空を証得したのなら、それが空であり無であることを明らかに知っているのに、粗浅で粗重な法に対して、どうしてなおも貪着し執取し続け、放捨せず変えないでいられるでしょうか? このように人を検証するのが最も直接的で最も簡単で最も効果的です。果たしてどれほどの人がこのような検証に耐えられるでしょうか?

——生如法師の開示
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