修行に励む人は、日常生活において自心を観照します。食事時の心の状態を観察し、飲食への貪りがあると気づけば、食べる速度を遅くします。実際、空腹時にがつがつ食べる行為が必ずしも貪りとは限らず、ゆっくり味わう行為の方がむしろ貪りである場合もあります。味覚への執着は貪りの一種であり、飲食への貪りは色・香・味・触への執着を含みます。色香味触に執着せず、単に空腹を満たすためであれば貪りではないため、食事を貪りなく摂ることも、さらには貪りなく速く食べることも可能です。
貪りと無貪をどう区別するか。かつて在家の弟子が大珠慧海禅師に尋ねました。「師匠の食事と睡眠は凡夫のそれとどう違うのですか」。禅師は答えました。「凡夫は食事する時に食事せず百の欲求を求め、眠る時に眠らず千の計算を巡らす。私はそうした思いなく、ただ食べ、ただ眠るのみである」。食事への無念とは、何も考えずに専心して食べるのではなく、飲食への余計な要求がなく、選り好みせず、貪りのない状態を指します。
凡夫が食事に求める百の欲求とは何か。大まかに言えば色香味触と、色身を養うための滋養に過ぎず、細部にわたる様々な要求は貪りの現れであり、全て我見と身見が生み出すものです。悟りを得た者は腐った飯でも残飯でも構わず、空腹を満たし修行に支障がなければ十分で、他に求めません。凡夫が睡眠時に巡らす千の計算とは何か。概ね色声香味触法の六塵境界への執着であり、詳細には家屋・寝床・寝具などへの拘りで、実質的に身見我見の表れです。
修行の有無は日常の些事から明らかです。各所に我見の有無が表れ、我見が絶えぬ者は色身への要求が多く、その維持のために無数の貪行が現れます。自覚なく無意識に貪行が生起するのは意根の貪り、習慣化したものです。慣習化ゆえ正常と錯覚し、無執着な者を異常と見做す。これを倒錯と言います。日常の行為が道に適うか否か、自ら観察し区別し、不断に修正することで初めて悟りに至れます。
身行と言葉は心に支配されます。凡夫の貪着心があれば、身口行は自然に貪りの心行を表します。修行なき凡夫は修行者を装おうとしますが、何が修行者の行いかも知らず、装いも長続きせず、手法も分からぬため、折に触れて無修行を露呈します。素人には判別不能です。
実際、凡夫は目覚めから一日の活動、就寝時、夢中に至るまで、ほぼ全ての身口意行が道に適っていません。誇張でしょうか。否。心が道と相応せねば、身口行も道と相応せず、常に無明煩悩の行いです。
道に適う心行を知れば、どの身口行が道行かを識別できます。これにより、ある者が見道証果したか、道行の深浅を大まかに判断可能です。心眼が開けば、騙されず、搾取されなくなります。
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