一匹の蝿が脚に止まり、痒くて煩わしい。実は脚とは色陰であり、四大の仮の和合である。痒みとは受陰であり、受陰は全て苦であり、来ることも去ることもない。相を取って推論することは想陰であり、蝿もまた仮象であり、痒みはただの覚受であり、これも仮象である。蝿や覚受に名前をつけ、意味を加えることが想陰である。追い払おうと決心し、意識が働く過程、覚受を感じる時間の経過が行陰であり、行陰は識に縁って生じ、縁に従って現れ、縁に従って滅する。これら全てを了別するのは識陰である:識は如来蔵の種子から生じ、これも縁に従って現れ、縁に従って滅する。
五蘊は因縁和合であり、変化は常ならず、変化が一定でないことが空である。執着すれば苦があり、苦受もまた仮象である。これら全てが一定せず、主宰するものがないことが無我性である。
再び蝿が脚を這うのを見ると、脚の痒みはまだ残っているが、内心の嫌悪感は消え、手を軽くひと振りすれば蝿は飛び去る。事件はつい今しがた起こったばかりなのに、また何も起こらなかったかのようである。五蘊は了不可得であり、我は存在せず、我の存在する所もない。私が蝿の脚を這うのを観るのは、空が空に対しているのであり、どこに得る所があろうか? この時内心は作為がなく、一片の静けさである。
これは弟子が事例を通して理論をはっきりさせようとする考え方であり、大変浅はかである。理論が明確になった後、弟子は少しずつ貪らずに深く観ていく。師匠がおっしゃったように、現象に直面し、意識をできるだけ加えず、直接観る。核心を把握し、引き続き精進する。
評:観行の考え方は明瞭である。具体的に観行する際には、一方で禅定を具足し、一方で精力を一点に集中させ、一点を突破して初めて、点から面へと全体の五蘊無我を証得できる。最も真実の観行、最も真実の体験を得るには、観行の際に、できるだけ四念処経で教えられている方法に従って如実に観行すべきであり、あるがままを観、覚知したものを観、想像したり代入したりすべきではない。四念処経はどのように観行を教えているか? 意識を動かさず、諸現象に直面した直接体験と観察であり、事実に基づき、脳内補完をしない。皆さんはよくよくこのような観行の境地を味わうべきである。もしこれができなければ、深く禅定を修めるべきであり、定力が不足すれば、全て分析に落ちてしまい、直感は少なく、現量も少なくなる。
現代の仏教修行において、ほとんど全ての団体の弘法者が教えているのは、意識による観行、意識による体験、意識による感覚、意識による体得、意識による分析であり、意根の修行には全く及んでいない。結果として得られるのは真実の体験や観行ではなく、客観的な観行ではなく、主観的な意識の分析、理解、想像が加わったものであり、虚構の要素が非常に多い。修行者はこれが真の観行か、真の参究か、真の修行か全く見分けがつかず、ただこのように思惟する方が容易で、あまり手間がかからず、成果が出やすいと感じているだけである。だから偽りの証果が普遍的に存在するのである。実際のところ、修行がそんなに簡単であるはずがなく、そんなに多くの凡夫の根性が聖賢に転じるはずがあろうか?
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