衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年11月03日    金曜日     第1開示 合計4043開示

いかにして如来蔵に依止すべきか

現在、多くの人々が如来蔵への依止について盛んに語っていますが、どれも少し捕らえどころのない印象があります。なぜなら、私たちが何かに依存しようとする場合、まずその存在を確認し、それを理解した上で、その対象が依存に値するか、依存できるか、どうやって依存するか、依存するために必要な条件は何か、依存した後にどうなるのかを判断しなければなりません。これらすべてを理解し、思考し、観察した上で、実際の行動を起こし、依存という目的を達成して安全と利益を得る必要があります。如来蔵に依止しようとする場合も同じです。例えば、大木に寄りかかって休み、木陰で休もうとする場合、まずその大木を正確に見つけ出し、それを観察・評価できる必要があります。どうやってその木の下までたどり着くか、どこに寄りかかるのが適切で快適か、どこが風雨や日差しを防げるかを判断し、それから座布団を敷いて寄りかかるのです。如来蔵への依止もこの道理と同じです。 

私たちが如来蔵に依止しようとするなら、まずそれを証得し、明心見性しなければなりません。そうして初めて、目の前でそれをありのままに観察できるようになります。そして、如来蔵の大まかな本性を隅々まで、ありのままに理解し観察し、誤りがなくなって初めて、依存することができ、身心世界が変容し始めるのです。観察と照合を経て、五蘊の身心世界をますます空と見なし、ついには心がこの世全体に対する認識も空じ始め、心性が如来蔵にますます近づき、同一化していきます。心性が真に変容し、貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩による汚れが取り除かれて初めて、私たちの心性が如来蔵に依止し変容したと言えるのです。こうなって初めて、転依が初步的に成功したと言えます。そしてこの時には、すでに六識と七識が識を智に転じ、初地以上の大菩薩に相当する境地となっています。 

もし心の中にまだ貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩があり、汚れが依然として甚だしく、智慧も低劣で、欠落が極めて多いならば、心は如来蔵に依止しておらず、如来蔵に近づいてもいません。如来蔵との距離は依然として非常に遠く、身心にも一定の利益はありません。この状態は如来蔵への転依には属しません。なぜなら、身も転じておらず、心も転じておらず、以前と同じ身心のままであり、五毒(貪・瞋・痴・慢・疑)がすべて揃っているからです。どうあっても如来蔵への転依ではなく、依然として無明煩悩に依っており、如来蔵に依っておらず、ましてや初步的な転依の成功など到底及びません。

如来蔵を証得した後、五蘊十八界の運行の中で、絶えず如来蔵の働きを観察することは、少なくとも別相智・後得智が必要であり、さらには後期には多少の道種智さえ必要です。そうして初めて、理にかなったありのままの方法で如来蔵の作用様式と法則を観察できます。そうでなければ、推論と推測に属し、如来蔵の働きを想像することはありのままの観察ではなく、如来蔵を観察することもできません。そうなれば、如来蔵の本性を真に理解することはできず、如来蔵に依止することもできなくなります。証悟後、その都度、如来蔵が五蘊の上でどのように作用しているかを観察するたびに、自身の身心は何らかの感銘を受けます。比べてみると、一方は清浄で一方は染汚、一方は無心で一方は有心であり、こうして慚愧の心、自責の念、そして憧れの心が生じます。日が経つにつれ功徳が深まり、徐々に如来蔵の心性に影響され、薫染され、煩悩が断たれ、識が智に転じれば、転依が初步的に成功したと言えます。完全かつ徹底的に転依した状態が、すなわち仏です。 

如来蔵を証得した後、どのような点においてその清浄性を観察するのでしょうか?五蘊の作用過程において、六根の作用過程において観察します。例えば、色(視覚対象)を見るとき、あなたは如来蔵が如何に清浄であるか、心の動きや思考活動がなく、ましてや邪な思いが全くないことを観察しなければなりません。私たちも如来蔵のように、それを手本として、これほど多くの私心や雑念、利己的な考えや貪欲な心、争いの心、所有欲などを持たず、これらの心の働きをすべて取り除くべきです。音声を聞くときには、如来蔵が如何に清浄であるかを観察します。如来蔵はどのような音声に触れても如如不動であり、音声に転じられることはありません。それならば私たちも、他人の言葉を聞くとき、称賛の声であれ侮辱の声であれ、如来蔵を手本として、できる限り貪欲や瞋恚の心の働きを起こさないようにすべきです。 

鼻が香りを嗅ぎ、舌が味を味わい、身体が触覚を感じ、心が法を思うとき、あらゆる境界に直面するとき、如来蔵が如何に清浄で、如何に無私で、如何に無我であり、如何に衆生のために奉仕しているかを観察しなければなりません。こうして観察した後、七識の心は薫染され、いかなる境界が訪れても、自身の心はそれに従って少しずつ清浄になり、無私無我も始まります。

こうして絶えず薫染されると、心は徐々に転依し、心の働きは変化し、染汚が消え去り、煩悩が断じ尽くされると、人空・法空の大智慧が生じます。識性が智性に転じ、第六識は妙観察智を具え、第七識は平等性智を具えます。この時点で初めて、転依が初步的に成功したと言えます。これ以前は成功しておらず、ただ徐々に学んでいるに過ぎません。証悟していない者は、安易に「如来蔵に転依した」などと言ってはいけません。転依からはまだ程遠いからです。たとえ証悟したばかりの人であっても、転依の問題について語る資格はありません。煩悩は山積みで、智慧は低く浅く、どうして少しでも如来蔵の様相がありましょうか?


——生如法師の開示
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