六識と七識は見分でもあり相分でもある。相分とは意識と意根によって了別される法のことであり、意識と意根は見分である。意識自体と意根もまた相分であり、凡て了別される法は相分である。能動的に了別する識心がすなわち見分である。
如来蔵の七大種子における「見」とは、見大種子を指し、見分を指すものではない。見大種子が如来蔵の見性を形成し、如来蔵の見性が同時に作用すると、七識の見分が現前し、世俗法の塵境、すなわち相を見ることに至り、続いて塵境を分別するのである。如来蔵の見分は、五遍行心所法である作意・触・受・想・思の働きを通じて運行され、特に想心所法を中心として、一切の法においてこのような作用を及ぼす。その後、如来蔵は一切の法を了別するに至る。如来蔵の見分もまた見大種子から離れることはできず、見大種子の見性作用があって初めて仏性が起用し、如来蔵の見分が一切の法を見ることが可能となる。
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