衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年10月22日    日曜日     第1開示 合計4037開示

転識成智の内包

識転成智は主に七識を識から智へと転換させることである。七識には無明の識性があり、智慧が欠如しているか、もしくは浅薄であるため、七識の無明と煩悩を滅除し、大智慧を出生させ、それによって識を智へと転じる必要がある。七識が無明を断尽し識が智へと転じた後、如来蔵もしくは異熟識に存在する染汚の種子が徹底的に断尽され、もはや如来蔵異熟識に負担をかけず、如来蔵異熟識の機能作用を制限しなくなる。この時、如来蔵異熟識は大いに光明を放ち、自らの一切の機能作用を徹底的に開花させ、大円鏡智へと変じる。便宜的にこれを如来蔵異熟識の識転成智と称する。

識心の識性は、無明性、愚痴性、煩悩性、遮障性、執着性であり、その智慧は浅薄である。法を見ると往々にして法相の中に陥り、唯識に関する智慧を持たず、法の真実の姿を識別できない。明心した後、次第に禅定を具え、煩悩を断除し、遮障を取り除き、漸次に牢関を通過し、有余涅槃において、命終に無余涅槃に入る能力を持ちながらも敢えて入らない。その後、夢幻観を通過し、唯識を修学し、一分の唯識種智を具えた後、初めて法を見てその唯識性を知り、法の実質を理解し、世俗の法相に陥らなくなる。智慧は質的な飛躍を遂げ、ここに六七識が識を智へと転じ、如来の家に入り、仏陀の真実の仏子となり、仏種を紹隆し、一方を弘化することが可能となる。

識転成智の前提条件は、必ず証果を得ること、それも三果以上であること。禅定を有すること、それも初禅以上の禅定であること。明心して証悟すること、すなわち法界の総相智だけでなく後得智も有し、眼前に微細に如来蔵が五蘊身において運作する様子を観察でき、さらに一分の唯識種智を有すること。したがって禅定がなければ、証について論じるべきではなく、智慧について論じるべきではなく、ましてや識転成智について論じるべきではない。せいぜい実際の問題を解決しない乾慧を有するに過ぎない。

最初の識転成智は初地菩薩の果位において起こる。門を登って室に入り、如来の家に入り、仏陀の真実の仏子、すなわち仏陀の実子となる。言外の意として、初地菩薩以前は仏陀の実子ではなく、四果の大阿羅漢や辟支仏も含まれる。その理由は彼らが識転成智を成し遂げておらず、識性が智性に勝り、一切法を観る慧力が不足し、一切法の有を一切法の空よりも勝れていると観るからである。

仏法の修学において、識転成智は非常に高い門戸である。これには定力と慧力が関わっており、両方とも力を具えて初めて、悠々とこの門戸を跨ぐ能力を持つ。定力は初禅以上の禅定力を具足し、慧力は空を観る智慧力、すなわち人我空と一分の法無我空を具足しなければならない。その他、菩薩の福徳力、自律性、心性、衆生への悲憫、願力などの条件も全て具足して初めて識転成智が可能となる。これは数劫、数十劫、数百劫、あるいは数千劫という短い期間の修持で達成できるものではない。

持戒とは自律であり、それによって初めて他を律し導くことができ、衆生の模範と導首となる。戒律が完成し忍辱柔和であって初めて、初禅定を具足する。この初禅定を以て、我見を断つ基礎の上に次々と種々の煩悩を断除し、智慧の遮障が一部分除去される。もし煩悩習気も断除されれば、智慧の遮障は全て取り除かれ、慧日が天地を明るく照らす。

これにより、修行の最終目的は六七識空の智慧を成就することにあると分かる。意識が次第に一切法空を証得し、意根も次第に一切法空を証得し、六七識の識性を智性へと転じる。無明煩悩を有する識心が識性であり、無明煩悩なき識心が智性である。根本煩悩を断除するには初禅以上の定力を具足し、さらに人我見と法我見を断除して初めて、識を智へと転じることができる。


——生如法師の開示
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甚深禅定を修得した際に現れる状況

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