衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年10月18日    水曜日     第1開示 合計4035開示

連なる五蘊身の仕組みを解明する

一組の双頭結合双生児の姉妹がおり、身体の大部分を共有している。心臓より上の部分はそれぞれ独立しており、それぞれが独立した片腕と片足を持ち、中焦と下焦の一部を共有している。身体全体の2分の1から3分の2がそれぞれ独立した部分である。姉妹の脊椎は骨盤部で融合しており、一部の神経系を共有し、一組の生殖器官を共用している。二人は一緒に自転車に乗ったり、ボール遊びをしたり、泳いだり、自動車を運転したりすることができる。

二人は一緒に母胎に入り宿った。母胎内で二人の如来蔵(にょらいぞう)が共同で業種(ごうしゅ)に基づいて身体の共通部分とそれぞれの異なる部分を形成した。もちろん彼女たちには共通の業種があり、前世で共通の業行を造作し、関係が非常に密接で、多くのものを共用したため、今世では一つの身体を共有せざるを得ず、緊密に協調して共に生活しなければ、二人とも生存できない。これが業障(ごうしょう)である。非常に不自由で独立できない業障である。したがって、人々の関係は適切な距離を保つべきであり、親密になりすぎず、来世でどうこうすると誓うことも避けるべきである。未来世で実際にそうなった場合、それは必ずしも楽しいことではなく、非常に苦しいことさえあり得る。

二人の如来蔵は同じ業種に基づき、四大種子を出力して共通の四大となり、和合して作用し身体の共通部分を形成する。一方、それぞれ独立した部分は、各自の如来蔵が単独で四大種子を出力して形成する。色身(しきしん)がやや完成すると、二つの如来蔵がそれぞれ意識を出生し、二つの覚知が生じる。胎児期が満ちると共同で出生し、結合双生児の姉妹となる。幸い二人は同性であり、もし異性だったら、一緒に生活するのは非常に気まずいことであろう。

二人の手と足は共同で協調する必要があり、食事や着替え、歩行などの五蘊(ごうん)の活動も二人が共同で協調し、調和を保たなければならない。頭脳の思考はそれぞれ異なり、習性や嗜好も様々で、性格や気質も異なる。結合している以上は互いに歩み寄って調整しなければならず、そうでなければ非常に不愉快になる。二人はそれぞれ独自の呼吸と心拍を持ち、飲食や水はそれぞれの胃に入る。個人が食べたものは個人が満腹になるが、胃より下の消化系には共通部分が存在し、これらの飲食を共同で消化し、その後共通の排泄系で排出しなければならない。個人がそれぞれ食事を取るとはいえ、相互に影響はあり、一人が病気になると、もう一人が代わりに薬を飲むことができる。

二人は一部の神経系を共有しているため、外界へのストレス反応や対応はほぼ一致する。二人の意根(いこん)は気性が異なり、対応の仕方にわずかな差はあるが、善縁があるため、共通の人事物に対応する際には互いに協調し歩み寄る。ここから見ると、二つの如来蔵の分業と協調は実に微細かつ微妙であり、如来蔵は全てを知悉している。したがって、業種が許す限り、如来蔵は必ず緊密に協調し、言葉や心念を用いることなく調和工作を完遂する。これは真に不可思議である。

六識(ろくしき)の中で、二人の身識(しんじき)の相互協調が最も多く、ほとんど常に協調し合わなければならない。そうでなければ何事も成し遂げられない。なぜなら神経系が関連しており、互いに感知もできるからである。二人の眼根(げんこん)はそれぞれの頭部にあり、眼識(げんしき)はそれぞれが使用する。しかし一つの身体上にあるため、向き合う対象も大きくは離れず、視界は制限される。耳根(にこん)は二つの頭部にあり、それぞれ独自の耳識(にしき)を持ち、それぞれの音を聞く。鼻根(びこん)はそれぞれの頭部にあり、それぞれ独自の鼻識(びしき)を持ち、それぞれの香りを嗅ぐことができる。舌根(ぜっこん)はそれぞれの頭部にあり、それぞれ独自の舌識(ぜっしき)を持ち、それぞれの味を味わうことができる。意根はそれぞれ独自であり、意識はそれぞれの勝義根(しょうぎこん)の中にあり、異なる法(ほう)を思惟し了別(りょうべつ)する。

二人の五蘊身(ごうんしん)が活動する時、二組の八識(はっしき)は互いに緊密に協調しなければならない。それぞれが分業し、十六の識が分業協力することに相当し、八識よりもはるかに複雑である。腹部の下焦は多くの部分を共有しており、ほとんどが共用されている。したがって消化や排泄時には、心を一箇所に集中させ、共同で意念(いねん)し、共同で感受(かんじゅ)し、互いに分離してはならない。病気の時は二人とも病気に等しく、痛みの時は二人同時に痛むが、それでもそれぞれの身識と意識が別々に病痛を感じるため、感受には多少の差が生じる。

七識(ななしき)の中で、最も密接に関連するのは二つの身識の協調である。一つの身体を共有するため協調は非常に迅速で、ほぼ完璧に近く、少しの違和感もなく、無理も感じさせない。最も重要なのは二つの意根の指揮と運営である。もし二人とも我執(がしゅう)が強く、習気(じっけ)が全く正反対ならば、頻繁に口論することになる。二人に善縁があれば、性格や気質、習気、嗜好が異なっていても、よく協調でき、心を一箇所に集中させ、互いに気遣い合うことで、お互いに最大の受用(じゅよう)を得ることができる。

就寝時、二つの意根が一致して横になることを決定し、身体を自由に動かしてはいけない。もう一人に影響を与える恐れがある。もし一人が眠りに落ち、六識が滅すると、身識も滅する。もう一人がまだ眠っていない時に身体を動かすと、もう一人の意識と身識を生起させ、目を覚ますことになる。もし心の中で考え事が多すぎると、もう一人の睡眠にも影響する。共通の神経系があるためであり、たとえそれがなくても、心念力や磁場力がもう一人に影響する。ここには多くの秘密が関わっている。

もし一人の身体が次第に機能しなくなる、あるいは死亡すると、その人に属する色身の機能は働かなくなる。頭部が機能せず、勝義根が破壊され、片腕と片足が使えなくなり、心臓が停止し、内臓はすべて機能しなくなる。そしてもう一人が生きていると、不完全な身体を無理に使用することになり、その機能も大きな影響と制限を受ける。結局のところ、死亡した身体部分を完全に切除することはできず、いくつかの病気を伝染させる恐れがある。たとえ病気の伝染を防げたとしても、一部の機能の欠如により、生き残った者の五蘊機能は大きな阻害を受け、生活は非常に不便になり、生命の質は大きく低下し、寿命も長くはないであろう。

生命がある限り苦受(くじゅ)はある。ましてや正常な生命ではなく、二つの身体が結合した生命はなおさら苦である。しかし衆生(しゅじょう)は生を貪(むさぼ)るため、苦を感じない可能性があり、むしろ絶えず享楽を追求し、苦を楽しみとするさえある。衆生はこのように無知で愚痴(ぐち)であり、貪欲が極めて重い者は、どれほど苦しくても、苦から離脱しようとする考えや追求を一切持たない。智慧(ちえ)があれば愚痴はなく、貪求(とんぐ)も生じない。苦を知り、断ち離れることを求めるであろう。したがって解脱(げだつ)の根本は智慧にある。


——生如法師の開示
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命終の時、如来蔵はどのように色身から徐々に離脱するのでしょうか?

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